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宗教とは

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有り難し有り難し 38

祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。

仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。

さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。

宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。

かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。

化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。

また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教を科学的に調べると

二つの問題が同時に質問されているように見えますので、私の独断で分けます。

 一つは、同じ釈尊の教えから始まったのに、各宗派の開祖のバラバラな教えになってしまった問題。
 もう一つは、天界とか輪廻とか証拠も出せないのになぜ言っているのか、信仰か?という問題。

 一つ目に対する私見は、では、すべて小説の書き足しと言えるのか?です。
 後から出てきた説が前の説と違うなら、どちらかが間違い(空想)、あるいは、両方間違いでしょう。どちらも正しいということはありません。
 この場合、順番からいえば、後から出てきた方が間違いである可能性が高いので、それは後回しにして、前にあるものの信憑性を先に確かめましょう。
 釈尊が教えたそのままの教えに最も近いと言われているパーリ語の聖典が、結構和訳されています。それはそのグループだけで、整合性が取れているかどうかを見てほしいです。
 今の仏教学界では、なぜか、すぐに前後別のものを混ぜて同時に研究し、「お互いに異なっているから、どちらが本当かわからない。いろいろ変化したのだろう」で話を終わらせます。前後関係は明らかなので、前のものだけで調べて、その中に矛盾があるかどうかを見てほしいのです。
 後から出てきたものは、小説の書き足しみたいなものかもしれません。では、最初のものも小説に決まっている、と、言えるでしょうか。

 で、二番目の問題に続くのですが、天界とか地獄とか輪廻とか、どうやって「再現」できるでしょうか。確かめられるでしょうか。
 パーリ聖典では、「悟ったら分かる。悟るまでは分かりようがないので無理に信じようとしないでください」とさえ、言っています。
 これは、見方を変えれば、「輪廻がない。天界も地獄もない。と、決めることも、悟ってないうちはできないでしょう?」ということです。
 そこで、仏教徒は、釈尊や悟った人々が言うのだから(そして、最初のパーリ聖典さえ小説だとは言い切れないので本当の可能性があるので)、信じておきましょう、という感じでいます。

 経典に書いてあるのだからあるのは当然だと押し付けるのもやり過ぎで、そんなのでたらめだよと否定するのもやり過ぎなのです。
 そして、混ぜずに、各宗派の話はあとにして、まず、パーリ聖典の中だけで矛盾があるかどうか、調べてみてほしいです。

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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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フィクションともノンフィクションとも言い切れず

ご質問ありがとうございました。

私も僧侶の末席に籍を置き30年以上経過しました。
現在の心境として質問文中の
「仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた」という点は同感です。
でも、小説には100%フィクション・100%ノンフィクションと言い切れない難しさがあると思っています。

化学の再現性も限界があると思っています。
人間の身体の7割は水分。
残りの3割が骨になるとして、人の7割を創っていた水のいのちを再現できる化学実験はあるのか?
人の生死を宗教は論じても、これだけ情報があふれていても人の源を構成している水がどこで生まれ、どこで消えるかを示す法話・説教・実証実験に私は出逢えていません。
(水の同位体研究をしている知人はいるので、そのうち聞く予定です)

仏教の絶対性の証明も『現在』のヒトの力量では難しいです。
『諸行無常』と『絶対不変の再現性』の両立??
(現在の私たちの概念じゃ)無理だと思っています。(無ではないです)

地獄も今までいろいろ聞きましたが、有るか無いかの論点自体が変だと最近は思っています。
「モノ」の有無ではなく「関係性やはたらき」を前提に話をした方が私は腑に落ちます。
地獄って人が傷つけられて怖いから地獄と「名付ける」だけで、釜茹での湯に人ではなく味噌と野菜を入れれば地獄ではなく人助けの炊き出し鍋に変ります。
針山も人を刺さずに、雨除けのシートやテントをつくれば避難所に早変わり。
鬼は災害ボランティアで感謝されるかもしれないです。
(恐怖を煽ること=宗教と思われたくないです)

論点すり替えて申し訳ないのですが、、、
仏教はファンタジーやフィクションかもしれませんが、暴走する人の欲を止めるブレーキとしての役割はあると思っています。

SNSの中傷も人が人を裁く悪循環を煽らず「経典にある兵戈無用・和顔愛語を忘れてはいけない。言葉や正義を武器にしない。責める言葉よりやさしい言葉を用いることは2500年前から言われ続けられている」といった方が説得力があるように思います。

僧侶も仏になれない未熟者ながら矛盾と葛藤の中で平和と健康を願っています。
ただ、押し付けや思い込みを信仰と定義するのは私も反対です。
信頼関係や安心感の中から信仰心が育つことを願います。

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有り難し
おきもち

自分のことはあまり好きじゃない。 でも、だから、せめて自分だけは 自分...
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そう、全てファンタジーです。

でも
人間は信じたいものを信じます。
コロナのデマに振り回されている人々は
デマを疑い切れないんです。
デマを信じてみたいんです。

宗教もデマだっていう証拠が無いから
信じる人は信じ切れるのでしょう。
そして
それを依り処にして心が落ち着くなら
それで良いのではないでしょうか。

ノーベル賞受賞者の
アインシュタインや湯川秀樹は
仏教を肯定しています。
人間の未知の世界を受け入れる姿勢は
重要なんだと思います。

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有り難し
おきもち

和田隆恩
 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生ま...
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ブッダが発見した真理と、宗教のニーズ

お釈迦様(ブッダ)が発見された真理は、普遍的な法則だと思います。
四諦、苦・無常・無我など。
それらの真理は、悩み苦しみを制御したり無くしたりするために役立つ教えです。
これは、時代や場所が変わっても誰でも確かめられます。
一方で、仏教がインドからアジア各地に広まる過程で、宗教としてのニーズに応えて肉付けされていったのも事実でしょうね。
お釈迦様が亡くなってから何百年か経つ頃には、たくさんの経典が創作されました。
まぁ、体育の授業みたいなものです。
授業中にサッカーをやってもバスケをやっても陸上競技をやっても、それぞれ身体を鍛えることにつながります。
阿弥陀仏を拝んでもお地蔵さんを拝んでも、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩をうまく制御することにつながれば、平安に生きることができます。
来世は極楽浄土、人生のハッピーエンドが確定していると思えれば、人生のストレスはかなり減ります。
仏様を拝んでいるときの心境が「快適な人生」につながるのです。
ただ、私達にはプライドの煩悩があり、自分の宗派が一番だと思いたい煩悩があるので、つまらない争いになる場合もあります。
それは、お釈迦様の教えに反することだと思います。

追記 
たとえば諸行無常。全ては瞬間ごとに変化している。
なのに私達は無常に気づかず「変わらないでほしい」と執着して、悩み苦しみストレスを増やしている。
諸行無常に気付けば、執着が減り、悩み苦しみが減るのです。
仏様を拝むときには、たとえば怒りの煩悩が鎮まります。怒りはストレスの原因になるので、怒っていない静かな心になる時間が増えるほど、日常生活のストレスが減ります。
私達は、レモンや梅干しをイメージするだけで唾液を分泌させられます。
思考やイメージによって、感情や身体までもコントロールできる場合があります。
脳への入力を変えれば、自ずと出力も変わるでしょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

「普遍的な法則」なぜ守らねばならないのですか?なぜ必然的な関係性があるのですか?法則であるならば「こうすればこうなる」とはっきりしたものがあるのですよね。それを教えていただきたいのです。ぼんやりしたものはどうでもいいのです。はっきりしたものをご教授ください。
なぜ拝むことで平安を得ることが出来るのですか?なぜ「快適な人生」を得ることが出来るのですか?根拠が示されていないので「こうすればこうなる」という押しつけにしか思えません。

「宗教について」問答一覧

伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?

 いつもお世話になっております。  私が尊敬する情報科学の先生がXで、 「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。 だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」 とおっしゃっていました。  私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」 と捉えています。  昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、 「仏様神様がお怒りになっている」 と捉えたと聞きます。  しかし、私は、 「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」 と捉えています。  私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、 思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも 繋がると思っています。  私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして いくかを説いてくれているものだという認識です。  「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。 私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと 思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が… お告げが…  お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や 精神疾患が原因と分かっています。  また、ある工学の先生は、 「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると 思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な 自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを 宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」 とおっしゃっていました。  私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、 世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。

有り難し有り難し 9
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牧師、神父、イエスキリストが信じられない

仏教のサイトでキリストの話をするのは筋違いだと思いますが、お話しします。 イエスキリストを心の底から信じられないのです。 というか、私は私が所属したい教会がわかりません。 宗教ジプシーで、十数個の宗教を渡り歩いてきました。 でも、どこの神様も心から信じられないのです。というか、どこの教会も心から信じられません。 牧師にもそのことを話しました。 どこの教会が真理かと。 で、聖書を読んでいるかと牧師に問われて、新興宗教の教会に通っていることを打ち明けると、とても馬鹿にされました。 すごく悲しかったし、本気でキレてしまいました。 新興宗教というか、キリスト教の教会にも行かなく成りました。 なんだか、「クリスチャン」が信じられないのです。 もちろん私が知り合ってきた人には、良いクリスチャンもいます。でも、ネットでクリスチャンを自称している人は嫌いです。 ガンジーが「クリスチャンはキリストのように生活してねーじゃん」とツッコミを入れているように、私はクリスチャンが善人ばかりではないことを悟りました。 私はどうしたらいいんでしょう。 もう宗教が嫌になっています。 嫌というか、何かすごい心がモヤモヤします。 どうしたらあの嫌な牧師を赦せるのでしょう。汝の敵を許せと聖書にはあります。 でもどれだけ祈っても聖書を読んでも牧師を赦せないのです。 カウンセラーにも牧師を赦せないことを話しました。 でも、心理学や精神医学を使ってもあの牧師を赦すことができないと私は思ってしまいます。 カウンセラーに助けを求めましたが、正直あまり救われたと思えないのです。 どうすれば人を赦せますか。 お坊さんは、こいつ殺してやりたいと思う奴をどう赦すのですか?そもそも人を殺したいほど憎みますか? また、どうすれば、私は私が納得する教会というか、教えに出会えるでしょうか。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

科学と宗教の棲み分け。仏教は科学否定?

 いつもお世話になっております。  ある日、仲良くなった女子神主さんと話していて、 「科学じゃ説明できないこともたくさんあるのよ」 「お医者さんも信用しきっちゃだめよ」 と言われました。  私はこの神主さんを怪しみ、あえて科学界隈の精神科の先生に、 神主さんからこう言われた、と伝え 「先生、科学で説明できないことって何だと思う?」 と尋ねてみました。  「たくさんあるじゃない。精神の現象なんて最たる例だよ」 と言われました。 「個々人の物事に対する捉え方とか、病気を治したいっていう 気持ちを起こさせたりとかは、科学が干渉できないってこと?」 と聞いたら、その通り、科学はあくまで目に見えるものを探求する 学問だと言われました。同時に、 「みんな、科学に期待しすぎ」 と。  精神科の先生のことは信頼しています。でも、科学のプロが 「科学に期待しすぎ」という考えなのはどうなの?とも思います。  以前こちらで、宗教心、仏教心とは何か、と質問したら、 「当たり前のことを分かるようになり、惑いをなくすこと」 とお答えいただきました。目を開けたら見える、おならは臭い、 というようなことだとご説明いただきました。  しかし、世の中の人は、 「どうしてこうなるの?どうすればいいの?怖い!」 とあらゆる事に惑います。  科学は、 「これはこうだからこうなるんだよ(当たり前の提示)。こうすれば 怖くないよ」 と人々に教えてくれます。  そして、素直にその事象を受け入れ、科学で明らかになった対応策を、 (例えば病気の治療)ありがたく実行させていただく。この謙虚さと やる気を起こさせるのが、宗教心だと思うのです。  こちらのお坊様も、 「仏教では、物事には必ず科学的原因があると説く」 「科学の発展なしに、現代社会はあり得ない」 とおっしゃいます。  時折、「科学が人を貧しくした!」と言っている宗教家を 見かけます。私は、こういう人は危険だと思うのですが。  ちなみに精神科の先生は、「僕を100%信用しないで」と言い、 神主さんも、医者を信じきるなと言いつつ「治らない人は、治そう としない人よ」と言います。  実は、長年の疑問です。私は、仏教は科学を否定する危険な宗教 だと思いたくないです。  

有り難し有り難し 15
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宗教について

お付き合いをして3年目、結婚を将来的に考えている20代後半の彼氏がいます。 結婚に向けて話を進めていく中で、 彼氏のお母様が熱心な新興宗教の信者なことが発覚しました。 彼氏は生まれた時から強制加入されているようですが熱心ではなく活動などにも参加していません。幽霊会員のような状態です。 彼氏はお母様の熱心さに嫌気がさして出身地から遠い所で暮らしているので日常生活で相手の親御さんが尋ねてきたり勧誘してきたりはあまりないと思っていますが… 私の父親が宗教関連断固拒否派です。 彼のことはずっと知らせていて近々食事だけでもするという話も出ていました。 私自身は信仰の自由はそれぞれ個人の自由かと思っているので勧誘されても入らないことは頻繁に伝えて固い意思でお断りすれば良いかなと思っていますが… 彼氏のお母様は私の入信を望んでいる様子だそうです。 (彼氏は宗教関連の話を一切私にしないで欲しいとお母様にきつく言ったようですが聞かない様子だそうです) 父親の反応が怖くてその件を言い出せない状態ですが、母親にも相談したところ「考えが甘すぎる」と言われてしまい結婚は愚か食事会すら猛反対されてしまいました。 私の結婚に対する考えは甘いのでしょうか?

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なぜ祈る?祈りと願いの違いとは?

 いつもお世話になっております。  最近、気になっています。人は、なぜ祈るのでしょうか?  私は毎日、私がお世話になっている精神科医療スタッフさんが 安全にお勤めできるように、また、ストレスのため体を壊して しまった友人が早く回復しますようにと祈っています。  最後に自分のために祈ったのは、いつだったか。といった ところです。  あるお坊さんが、 「祈りとは誓い。『私は、○○をします。お見守りください』と、 神(仏)だのみではなく、自分が頑張るのを見守ってもらう」 とおっしゃっていました。私は、本来の仏教は神秘主義に傾倒した、 現実逃避の教えではないんだ。と安心しました。  しかし現実は、祈りや寄進が「自己愛の増幅」に繋がってしまって います。 「私はこれだけ○○様にお祈りしてるんだワ!」 「私はこんなに○○寺にご寄進したんだワ!」 と、ナルシストになってしまっているのです。  だから、信者間でのモラルハラスメントや、不倫や性暴力の 横行といった、これが宗教者かと思われる、アリエナイ事態 が各所で乱発しています。彼ら彼女らからは、本来宗教者が 持つべき「謙虚さ」が欠落しているのです。  現に私は、色々なお寺で色々な嫌な事をされています。  まともに祈って努力して頑張っているのは、医学生さんや 法学生さんくらいでしょう。  現に仏教系の大学は、偏差値が低い所ばかり。まあ、偏差値 というのは倍率のような側面もあり、志望者さんが多い学校ほど、 「きりがないから優秀な子から…」と高くなるようですが。  昔、陰謀論は宗教が担っていたそうです。陰謀論にはまる人々は、 「私は真実を知っている」「世界は間違っているが、私たちは正しい」 と驕ります。そして彼らは、科学が嫌いで怠け者です。  仏教では、 「あらゆる事象には科学的な原因があるから、呪いやたたりなど 怖くない」 と説いていると聞きますが、これを理解している人が、どれだけ いるでしょう?  もっと言いたい事はありますが、長くなるのでここまでに します。  私は祈りを捧げるとき、周りへの感謝、そして、頑張ります、 という気持ちを大切にしたいと思っています。そして、祈ったら、 次は現実的なアクション。間違っていますか?

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ