宗教とは
祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。
仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。
さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。
宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。
かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。
化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。
また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教を科学的に調べると
二つの問題が同時に質問されているように見えますので、私の独断で分けます。
一つは、同じ釈尊の教えから始まったのに、各宗派の開祖のバラバラな教えになってしまった問題。
もう一つは、天界とか輪廻とか証拠も出せないのになぜ言っているのか、信仰か?という問題。
一つ目に対する私見は、では、すべて小説の書き足しと言えるのか?です。
後から出てきた説が前の説と違うなら、どちらかが間違い(空想)、あるいは、両方間違いでしょう。どちらも正しいということはありません。
この場合、順番からいえば、後から出てきた方が間違いである可能性が高いので、それは後回しにして、前にあるものの信憑性を先に確かめましょう。
釈尊が教えたそのままの教えに最も近いと言われているパーリ語の聖典が、結構和訳されています。それはそのグループだけで、整合性が取れているかどうかを見てほしいです。
今の仏教学界では、なぜか、すぐに前後別のものを混ぜて同時に研究し、「お互いに異なっているから、どちらが本当かわからない。いろいろ変化したのだろう」で話を終わらせます。前後関係は明らかなので、前のものだけで調べて、その中に矛盾があるかどうかを見てほしいのです。
後から出てきたものは、小説の書き足しみたいなものかもしれません。では、最初のものも小説に決まっている、と、言えるでしょうか。
で、二番目の問題に続くのですが、天界とか地獄とか輪廻とか、どうやって「再現」できるでしょうか。確かめられるでしょうか。
パーリ聖典では、「悟ったら分かる。悟るまでは分かりようがないので無理に信じようとしないでください」とさえ、言っています。
これは、見方を変えれば、「輪廻がない。天界も地獄もない。と、決めることも、悟ってないうちはできないでしょう?」ということです。
そこで、仏教徒は、釈尊や悟った人々が言うのだから(そして、最初のパーリ聖典さえ小説だとは言い切れないので本当の可能性があるので)、信じておきましょう、という感じでいます。
経典に書いてあるのだからあるのは当然だと押し付けるのもやり過ぎで、そんなのでたらめだよと否定するのもやり過ぎなのです。
そして、混ぜずに、各宗派の話はあとにして、まず、パーリ聖典の中だけで矛盾があるかどうか、調べてみてほしいです。
フィクションともノンフィクションとも言い切れず
ご質問ありがとうございました。
私も僧侶の末席に籍を置き30年以上経過しました。
現在の心境として質問文中の
「仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた」という点は同感です。
でも、小説には100%フィクション・100%ノンフィクションと言い切れない難しさがあると思っています。
化学の再現性も限界があると思っています。
人間の身体の7割は水分。
残りの3割が骨になるとして、人の7割を創っていた水のいのちを再現できる化学実験はあるのか?
人の生死を宗教は論じても、これだけ情報があふれていても人の源を構成している水がどこで生まれ、どこで消えるかを示す法話・説教・実証実験に私は出逢えていません。
(水の同位体研究をしている知人はいるので、そのうち聞く予定です)
仏教の絶対性の証明も『現在』のヒトの力量では難しいです。
『諸行無常』と『絶対不変の再現性』の両立??
(現在の私たちの概念じゃ)無理だと思っています。(無ではないです)
地獄も今までいろいろ聞きましたが、有るか無いかの論点自体が変だと最近は思っています。
「モノ」の有無ではなく「関係性やはたらき」を前提に話をした方が私は腑に落ちます。
地獄って人が傷つけられて怖いから地獄と「名付ける」だけで、釜茹での湯に人ではなく味噌と野菜を入れれば地獄ではなく人助けの炊き出し鍋に変ります。
針山も人を刺さずに、雨除けのシートやテントをつくれば避難所に早変わり。
鬼は災害ボランティアで感謝されるかもしれないです。
(恐怖を煽ること=宗教と思われたくないです)
論点すり替えて申し訳ないのですが、、、
仏教はファンタジーやフィクションかもしれませんが、暴走する人の欲を止めるブレーキとしての役割はあると思っています。
SNSの中傷も人が人を裁く悪循環を煽らず「経典にある兵戈無用・和顔愛語を忘れてはいけない。言葉や正義を武器にしない。責める言葉よりやさしい言葉を用いることは2500年前から言われ続けられている」といった方が説得力があるように思います。
僧侶も仏になれない未熟者ながら矛盾と葛藤の中で平和と健康を願っています。
ただ、押し付けや思い込みを信仰と定義するのは私も反対です。
信頼関係や安心感の中から信仰心が育つことを願います。
そう、全てファンタジーです。
でも
人間は信じたいものを信じます。
コロナのデマに振り回されている人々は
デマを疑い切れないんです。
デマを信じてみたいんです。
宗教もデマだっていう証拠が無いから
信じる人は信じ切れるのでしょう。
そして
それを依り処にして心が落ち着くなら
それで良いのではないでしょうか。
ノーベル賞受賞者の
アインシュタインや湯川秀樹は
仏教を肯定しています。
人間の未知の世界を受け入れる姿勢は
重要なんだと思います。
ブッダが発見した真理と、宗教のニーズ
お釈迦様(ブッダ)が発見された真理は、普遍的な法則だと思います。
四諦、苦・無常・無我など。
それらの真理は、悩み苦しみを制御したり無くしたりするために役立つ教えです。
これは、時代や場所が変わっても誰でも確かめられます。
一方で、仏教がインドからアジア各地に広まる過程で、宗教としてのニーズに応えて肉付けされていったのも事実でしょうね。
お釈迦様が亡くなってから何百年か経つ頃には、たくさんの経典が創作されました。
まぁ、体育の授業みたいなものです。
授業中にサッカーをやってもバスケをやっても陸上競技をやっても、それぞれ身体を鍛えることにつながります。
阿弥陀仏を拝んでもお地蔵さんを拝んでも、欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩をうまく制御することにつながれば、平安に生きることができます。
来世は極楽浄土、人生のハッピーエンドが確定していると思えれば、人生のストレスはかなり減ります。
仏様を拝んでいるときの心境が「快適な人生」につながるのです。
ただ、私達にはプライドの煩悩があり、自分の宗派が一番だと思いたい煩悩があるので、つまらない争いになる場合もあります。
それは、お釈迦様の教えに反することだと思います。
追記
たとえば諸行無常。全ては瞬間ごとに変化している。
なのに私達は無常に気づかず「変わらないでほしい」と執着して、悩み苦しみストレスを増やしている。
諸行無常に気付けば、執着が減り、悩み苦しみが減るのです。
仏様を拝むときには、たとえば怒りの煩悩が鎮まります。怒りはストレスの原因になるので、怒っていない静かな心になる時間が増えるほど、日常生活のストレスが減ります。
私達は、レモンや梅干しをイメージするだけで唾液を分泌させられます。
思考やイメージによって、感情や身体までもコントロールできる場合があります。
脳への入力を変えれば、自ずと出力も変わるでしょう。
質問者からのお礼
「普遍的な法則」なぜ守らねばならないのですか?なぜ必然的な関係性があるのですか?法則であるならば「こうすればこうなる」とはっきりしたものがあるのですよね。それを教えていただきたいのです。ぼんやりしたものはどうでもいいのです。はっきりしたものをご教授ください。
なぜ拝むことで平安を得ることが出来るのですか?なぜ「快適な人生」を得ることが出来るのですか?根拠が示されていないので「こうすればこうなる」という押しつけにしか思えません。