自我の否定の程度
仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。
釈迦は八正道など自身の心がけを要することを勧めていますので、「無我」とは「ぼーっと生きる」ことでは断じてあり得ないと思います。
インド文化に住まない我々が「無我」の道を生きて行くとは、どういうことを意味するのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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仏法は無我にて候う
ご相談拝読しました。
「自我」の問題についてはおっしゃる通りだと思います。釈尊は怠ることなく修行することを勧めておられますので、修行を為す主体がなければ仏道自体が成立しませんものね。
さて、では修行して「無我になる」かというとそれは違うでしょう。すでに「無我である」身でありながら「これが私だ」「これは私のものだ」という我執・我見によって迷い苦しみを生み出していることを覚る。
だから覚るために修行するというより、覚りながらもその覚りの内容と自身の身が乖離する現実がある故に修行するというところでしょうか。
なお、浄土真宗的には死ぬまで迷いの身であるというスタンスですから他宗との違いはあるかもしれません。
浄土真宗においては、迷いをなくして覚りとの乖離を埋めようとするのでなく、迷いを知らされ続ける生活が修行かもしれませんね。
どの文化圏で生きようが、人間が生老病死する身であることには変わりありませんし、渇愛・執着によって身を焦がす存在であることも変わらないでしょう。
だからこその「無我」ではないでしょうか。いくら頭で「無我」を理解しても我執から離れられないからこその仏道です。
無我の意味は、スマナサーラ長老の
『無我の見方』、『無常の見方』(ともにサンガ刊)などを読めば分かります。
世間の仏教学と関係なく、でもパーリ語の原始仏教聖典に忠実に、しかも、普通の日本人に分かる平易な日本語で書かれています。
それでもわからなければ、長老が住職の日本テーラワーダ仏教協会のホームページの質問コーナーを見てください。同様の質問がいっぱいあり、答えは明確になります。
質問者からのお礼
無我の境地について考えるがあまり我々がすでに本質としては無我であるという真理を忘れていたようです。ご回答をありがとうございました。