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お坊さんのエイプリルフール

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もうすぐエイプリルフールですが、お坊さんならではのエイプリルフール体験談ってありますか?
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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

4月1日は・・・

 振り返ってみたら、エイプリルフールってそう身近ではないなぁと思いました。学生時代は春休みでそんなに友達と会わなかったし、社会人になってからは、新年度の初日ですからそんな気分ではなかったし・・・。

 お坊さんになってから初めて知りましたが、この日は親鸞聖人の誕生日なので、エイプリルフールとは全く無縁になりました。ウソをつくことは五戒の一つなので、お坊さんならではのエピソードは無いかも知れませんね。

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和田隆恩
 1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱...

「揶揄節」のエイプリルフール起源説

kyosuke様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もうすぐエイプリルフールですね。

そうですね・・基本的に嘘を付くこと(妄語)自体が仏教では悪い行いとなりますので、冗談でも避けないといけないこととなりますが・・まあ、ほどほどのユーモア程度で済むものでしたら、それもこの日ばかりはありかとも存じます。

エイプリルフールと仏教との関係・・実はあながちないとも言えません。なぜならば、エイプリルフールの仏教起源説があるからでございます。

いつの時代かにおいて、インドにおける仏教修行の集中期間の一つとして、3月の春分の日から月末までの期間が設けられており、4月1日に厳しい過酷な修行が明けた修行僧たちが、俗世へと戻った開放感からか、羽目をはずして、悪ふざけをしたり、人をからかったり、いたずらしたりした風習としての「揶揄節」ということが、やがて欧米にも広まって、エイプリルフールになったという説でございます。※補足・・確かに日本でも春分とその前後三日間が「彼岸」として、特に六波羅蜜行の実践、功徳を積む修行期間であると言えますが、彼岸がインド仏教の由来かどうかはっきりしていません。

例えば、このような風習として、少し異なるものの、現在日本の禅宗においてもっとも過酷な修行期間となる臘八(ろうはつ)大接心が明けた冬至灯夜の日に、年一回の無礼講、徹底放行の馬鹿騒ぎが許されています。※もちろん、各僧堂や宗派(臨済宗・曹洞宗)によっても差異があるかとは存じます。

とにかく、この時ばかりは、上下関係も関係なくなり、飲めや歌えや踊れの放行三昧、昔は、日頃の鬱憤をこの機会に晴らさんと、上の先輩に対して仕返しをしてもこの日ばかりは許されていたため、日頃厳しい覚えのある先輩は、一目散に逃げ隠れたとも聞き及びました(笑)

また、「揶揄節」については、別に、過酷な厳しい修行の間、高い境地にあった僧侶たちが、修行が明けて修行が終わって俗世に戻った途端に迷い始めるということを世間の人がからかって、揶揄したということから「揶揄節」になったという説もあります。

いずれにしましても、旧年度がいよいよ終わって、新年度の始まる最初のこの日ばかりは少し開放感を持って、楽しく過ごし、新年度へ向けて心機一転して臨んで参りたいものでございますね。

川口英俊 合掌

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川口 英俊
チベット仏教 ツォンカパ大師中観思想・後期二諦説の研究

「お坊さん・僧侶全般」問答一覧

不謗三宝戒について

お世話になっております。 僧籍を持つ方との関係について相談します。 以前ご相談した方なのですが、授戒をためらっている理由の一つである方との関係です。その方はお寺のご住職の弟子で、僧籍をお持ちです。 その後、こちらでいただいたアドバイスを受けて少し距離を置いていました。お寺のご住職の法話は拝聴していました。 数カ月して必要があり、またそのお弟子さんの経営するお店にお世話になりました。 当時私はかなり苦しい状況にありました。その方に近況をお話したところ、特に悩み相談をしたつもりではなかったのですが、規定の時間をオーバーしてずっとその方の人生や人生観について語られました。 私の助けになればと思ってお話をされたのだと思いますが、正直、私には見当はずれなお話でしたし、何をお話しなさりたいのか、どうしてそういうお話になるのかもよくわかりませんでした。当時私は極めて多忙な時期で、なんとか時間を作って伺っていました。そのことはその方にもお話していました。一分一秒も惜しく、早く帰りたいと思いながら、でも途中でお話を遮るのは失礼だと思い、最後まで伺って、お礼を言って失礼しました。 距離を置いている間、僧籍を持っている方のことは敬わなければならないと戒にあるのだから、意見を素直に聞けない自分がわがままなのかもしれない、ご縁があったのだからすぐに捨てることは良くないと思い、今回改めて伺いました。しかしやはりその方のことを尊敬することができません。 ご住職は身体が丈夫ではないらしく、現在は仕事のほとんどをお弟子さんにさせているそうです。私たちとも直接会うことはなく、もちろん私もこれまで直接お話したことはありません。ただ、ご住職の法話から、こちらの状況は伝わっているのかなと少し推測する程度です。 お話したお弟子さんは後継者にはならないと思いますが、ほかのお弟子さんのお話も少し疑問に思うところがあり(上の、「受け入れられないのはあなたがわがままだからだ」ということはほかのお弟子さんから言われました)、今後、そのお寺とかかわって良いのか迷っています。 ご住職がおられる間はずっと法話を拝聴したいと思いますが、ほかのお弟子さんのことは心から尊敬する気持ちがわきません。このような考えは、戒に背いているのでしょうか。

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ご住職の対応について意見を聞きたいです

長文を失礼いたします。 私の母が亡くなった折、私の父が私の母の永代供養のお願いのためにお寺へ出向いた折、私からいくつか住職に質問をいたしました。 「私、葬儀社の方にかなりお世話になりまして、で、その方たちは亡くなった方に対して一礼を欠かさず、敬意を尽くしているようにみられました。 私はお経の意味などはわかりませんが、この一連の(お経をあげる式の)動作中に、何かそうした「敬意を表す」ような行動は含まれるのでしょうか」 といった内容のものです。その住職の言動などに、どこか投げやりっぽい感じを受けましたもので。 住職の回答ですが、端的に「お経をあげることがこうした敬意になります」というものでしたが、なんとなく私は納得できませんでした。 続けてあげていただいたお経の意味をおたずねして、それについても説明していただきました。 「納得いただけましたか」という問いに対して、私は「あとは個人個人のとらえ方になってくると思います」みたいなことを言ったと思います。 その直後にご住職が激高しまして・・・。 「お前、俺のあげるお経より葬儀社の人間のほうが礼を尽くしてるっていうのか、そうなら全部葬儀社の人間に供養してもらえ!」 「俺の方が(葬儀社より)上にきまってるだろ!」 「こっちは商売でやってるんじゃないんだ!お前がそんな態度なら金は返す、そのかわりこの戒名は返してもらう」 「●●(父の名前)とのご縁もあって、特別に永代供養という形をとったが、こんな態度をとられるとは思わなかった」 私も「それは違う」「誤解だ」と色々言いましたが、聞き入れようとはされなかったように見受けられます。 最終的には「お前の言うとおり誠意なんてのは個人個人のとらえ方だろうから、それならお前が納得する寺を探せ!」と怒鳴った後、住職は席を立って退席されてしまいました。 私自身「お経なんて何の役に立つのか」といった気持ちがありましたし、そうした気持ちを見透かされていたのかもしれません。 それにこうした質問は「場」にそぐわないものでしょうし、私のような気持ちを持つ人と接する場合、かなり不愉快であっただろうとも思います。 しかし、あそこまで面罵されるとは思いませんで・・・。 二人で平謝りしたことでとりなしを得ましたが、個人的には今後の事も考えています。ほかの方のどんな見解でも聞きたいです。よろしくお願いいたします。

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嫁ぎ先がお坊さん便を使うこと

死後の世界はわからないものだとこちらでも他質問でいくつか拝読いたしました。 現代では亡き親族の供養の仕方は様々かと思います。いろんな考え方があって当たり前だと思うのに、いざ自分のことになると気持ちがついていきません。 私は名家出身とかでは全くないですが、両親はあるお寺の檀家として必要だと思うことはやってきておりました。父は亡くなっております。 私自身、それが普通だと思って生きてきまして、嫁いだら私の実家のお墓に入れなくても、宗派は違えども、嫁ぎ先のお墓・御先祖を大切にし、供養や法要等やるものだと思っていました。 しかし、主人の実家では檀家などの概念がありません。そのような考えがない方も現代にはいらっしゃると分かってはいます。 こちらでも、葬儀は必要なのか、法要は必要なのか、お墓は必要なのか、、、などと、類似の質問はあるかと思います。 ただ、義祖父の亡き後、葬儀はお坊さん宅配便…法要は最低限…。なんだか寂しいような、理解できない気持ちになってしまいました。 ですが、そのときに来ていただいた和尚さまには私としては感謝しかありません。 私自身、正直仏教について詳しく存じている訳では全くありませんのでこのような質問をさせていただくこともどうかとは思うところもあります。 ただ、気持ちの置き所をどうしたら良いのかわかりません。厳しいお言葉でも構いません。何かお示しいただけたら幸いと思い、質問をさせていただいました。よろしくお願いいたします。

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乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

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