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神仏のルーツをどうお考えでしょうか

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 大変浅はかな知識で申し訳ないのですが、好奇心もあり皆様方にお聞きしたいことがあります。

 仏さま、神様について、神仏習合や仏教流派の経緯があると思います。

 由来を辿ると、七福神の中にも、日本古来の神は少ないようです。

 また、仏様においても、流派によりますが大日如来は、インド神族やペルシャ宗教との繋がりもあると聞いています。

 もちろん仏の教えの意味する所は、それとは別に明確にあるものと思っております。

 異なった文化や歴史、土地ごとでも何らかの神仏の繋がりがあることについて、皆様方がどう考えていらっしゃるものか、差し支えなければ是非お教え下さい。

 もし失礼に当たるものでしたら私の質問は御放念くださるようお願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

神仏は深読みしてこそ面白い

仏教の根本に縁起思想というものがあります。この世界の全てには原因と結果があります。そしてその原因と結果が過去・現在・未来にわたって網の目のように繋がって世界が成り立っています。

この繋がりを縁起と呼ぶのですが、全てが繋がっているということは分かっても、具体的に地球の反対側の名も知らない、男性か女性かも知らない不特定の存在との繋がりを意識するには限界があります。まして認知できない存在に感謝と敬意を持ちましょう!というのはいささか机上の空論といった感があります。

そこで、認知しきれない縁起そのものをイメージ化します。時系列を含んだ全宇宙の象徴として、礼拝の対象とするわけです。仏像を見ながら、その奥に全宇宙を見ようとしているのですよ。

古事記にオオゲツヒメノカミという神さまが登場しますが、この神はスサノオノミコトに斬殺されます。するとオオゲツヒメカミの目は稲穂、耳からは栗、鼻からはあずき、腹からは麦、足からは大豆、頭から蚕が生まれます。オオゲツヒメカミ自身も何事もなかったように生き返ります。

これは今で言うところの炭素の循環であるとか、食物連鎖といったものを象徴しています。神仏の正体とは、このような自然の観察なのですよ。だから国や文化を超えて繋がっていて当然です。アバターが違うだけで本質は同じ大自然や宇宙ですから。むしろ似なければ何を観察して宗教を創り上げたのか疑問符が付きます。面白いでしょう?
農耕文化が育んだ宗教は特に似ます。住民が救ってくれるなら誰でもいいと思っている所も含めて(笑)

マンガで読破シリーズで十分ですので、ぜひ古事記を読んでみてください。世界が違って見えてきますよ。本来、全日本人が持っているべきなのに忘れられしまった教養です。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み) 最近YouTubeを...
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日本独自の神様信仰に仏教の教えが合致したのでは

ご存知かもしれませんが仏教はそもそも過去、現在、未来に様々な仏様が存在し、その真理を全て悟ったのがお釈迦様(ブッタ)です。なのでお経でもすごく多くの仏様の教えをその方に合った形でお釈迦様(ブッタ)は説いてます。
ちなみにお経はお釈迦様が弟子などに説いたお話しを日本では中国から伝来したものを漢文や古代インド語で読んでいるだけです。

本題に入りますと日本にはそもそも自然神などのやおよろず神信仰が仏教が伝来する前からありました。
そして仏教の教えが伝来し、日本古来の神様信仰とリンクする部分が多くあり受け入れやすかったのかもしれません。
さらに聖徳大使などが政治に仏教の教えを活用したことから仏教のほうが理屈的に活用しやすかったかもしれませんね。
明治になり廃仏棄釈が行われ政治的に神社とお寺は分けられましたが、その前は神、仏は共存していました。
なので極論で言うと神も仏も同じようなものと考えて良いのかなと思います。

神社にはカガミがあり、ガ(我)をとればカミになり、仏教でも我をとることにより悟りの境地に達します。

ちなみに仏教は八万四千の法門と呼ばれるほどめちゃくちゃ多くの教えがあり、様々な宗派がありますがどれも最終目的は「悟りの境地」に達するための方法が違うだけなのでどの宗派も正解です。

そして、神様でも仏様でもご自分の心の拠り所になるものを信仰すれば良いと思います。

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初めまして。 私は山梨県の信楽寺というお寺の住職をしております清水雅典と...
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この世は曼荼羅

若僧ながら僕の見解を述べさせていただきます。
仏教というのインドで生まれましたが、インドでは、本当に多様な宗教が溢れています。多数を占めるヒンドゥー教、仏教、ゾロアスター教、ジャイナ教など。そんな古来からの「宗教的カオス」なインドでは、時代や地域によって宗教の体型を柔軟に変えなければ宗教自体が生き延びることは出来ませんでした。ブッダの説いた原初的な仏教はタイなど東南アジアに伝わりました。1世紀前後に成立した大乗仏教も、様々な変化をしつつ中国や日本にも伝わりました。そして、大乗仏教をベースにジャイナ教などインドの土着の宗教の要素をとりいれながら成立した「密教」は本来仏教では禁じられていた加持祈祷も取り入れ、チベットや中国・日本に伝わりました。しかしどの仏教も本国・インドでは途絶えてしまいます。近年・佐々井秀嶺僧正がインド仏教を再興するまで、インドでは仏教というものが本当に絶滅していたのです。
日本に伝わった仏教に限定して言えば、相談者様のおっしゃった七福神や弘法大師空海の持ち込んだ密教などが顕著ですが、中国・日本の土着の神も取り込んだという柔軟性こそ、他の大宗教にはない仏教の特性でしょう。
もともとが宗教的カオスのインドで生まれた宗教ですから、時代や地域によって変化しなければ生き残れなかったのです。
密教世界を描いた「曼荼羅」をみていただければわかると思いますが、大日如来を中心として様々な神仏菩薩が描かれていますが末端には、人々を妨げる毘那夜迦や夜叉の類も描かれています。
仏教は決して綺麗事だけの宗教ではありません。世の中には、悪いものもいいものも確かに存在すると示しています。曼荼羅というのは、理屈だけでは表せない世の中を切り取った、仏教の世界観そのものなんです。
故に、仏教は他宗教の神も、土着の神も否定せず、取り込んでまとめて「仏教」にしまいます。
「今の仏教はブッダの説いた仏教じゃない、偽物だ」という人がいます。その通りです。
しかし、そんな人には想像力と歴史考察が足りていません。
時代と地域によって、そこに確かに存在する人々の求めるものによって、それに応えるべく変化し続けるという普遍性こそ、仏教の一番の特徴なんです。
まさに「諸行無常、諸法無我」ですね。
相談者様の求める答えとは違った返答となってしまったかもしれません。ご容赦ください。

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質問者からのお礼

不悪口院恵成様
 曼荼羅をそういった視点で窺ったことがなく興味が湧きました。カオス状態のインド、さらに東欧、西欧との繋がりを考えると、知的好奇心が満たされます。それでも全てに通じる普遍性を教えて頂きました。

大慈様
 縁起思想の受け取り方の一つが分かったかも知れません。古事記は若かりしころ、古語調な難解で本を置きましたが、このお話を踏まえ日本について新たな発見ができそうです。

清水雅典様
 日本の自然に対するアニミズム信仰と仏教の融和、時の治世者の進めがなくとも今と同じように広まったのではないかと思う位です。神社のカガミも仏も我をとる。心の拠り所になるものをのお話が私に沁み入りました。

 神仏や仏教について、文化的な考えを及ばすことの是非が心配だったのですが、思いきって聞いてみて良かったです。
 本当にありがとうございました。

大慈様
 神仏の正体は自然の観察であり、国や文化を超えて繋がっていて当然。アバターが違うだけで本質は同じ大自然や宇宙ですから。

上記の内容が非常に機知に富んでおり敬服致します。

「仏教全般」問答一覧

「仏教ってどんな教え?」と聞かれたら

 いつもお世話になっております。こちらの先生方のお説法を拝読し、 なるほど、と思うことがたくさんあり、有難く勉強をしております。  私には、最近仲良くなった友人がおります。なんと不思議なご縁で、 学生時代は、私の不躾な振る舞いから、私を嫌っていたのですが、 近所に住んでいることが分かってから、道で会うたび 「ロータスさん!元気?」 などと、後ろから肩を叩かれるなどするようになり、仲よくしたい、 連絡先を交換しよう、ということになり、「実は…」と、私の障害を 打ち明ける、ということがありました。  「あなたに不快な思いをさせるのが、とても怖い。不快な事が あったら、教えてくれ」 と私が述べると、 「いいよ。でも、それは、ロータスさんじゃなく、障害のせいだと 思っておくよ」 と言ってくれました。  私が、お寺や神社に頻繁にお参りすることを、この友人は知って います。「今、〇〇寺にいるよ」とスーツに半袈裟を付けた自撮り 写真(もちろん、お堂の外で撮影)を送ったとき、 「襟のその綺麗な布は何?どうして、着けているの」 と返信が来、回答に困りました。その時は、仏具店のホームページに 書いてある事を引用し、答えました。  そこで、 「ロータスさんの信じている、仏教ではどんな事が説かれているの?」 と訊かれたとき、何と答えようかと考えました。  現時点では、神秘性を強調するなどしては、霊能者や新興宗教と 同一視されてしまう可能性を危惧し(ただでさえ、世間一般には 混同されている気がするので…)、 「物事には必ず、科学的(現実的)に、言葉で説明できる原因や、 法則性がある。何かが起きたら、神様仏様のお見守りの下、その原因や 法則性を明らかにして、苦しみを減らして、地に足をつけて生きよう、 っていう教えだよ。もちろん、色んな人や物、現象への感謝も忘れずに」 と、説明しようと思っています。  いかがでしょうか?私の見識は間違っておりますでしょうか? ご評価、お待ちしております。

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いい諦めと悪い諦め

お読みいただき、ありがとうございます。 人間誰しも大なり小なり、後悔はあるかと思います。私もいろいろ後悔があり、何年も、下手したら10年、20年前のことでもあの時アレがなかったら…、あの人がいなければ…、もっとあの時にあぁしておけば今頃は…、と未だによくクヨクヨと後悔する時があります。そしてそれをなんとか取り返す術はないかとどうしようもないことを考えてしまう時があります。 ただ、なぜか今日ふと突然「違う…『あの時アレがなければ、こうしていれば』とか『もっと今頃はこうなっていたはず』というのは自分はもっとこうであるはずなのに、という歪んだプライド、驕りの妄想でしかない。確かに「俺のせいではない」「なんで俺だけ」と言いたくなる出来事もあったかもしれない。でもその出来事に対する反応も含め、他の人なら違う行動が取れたかもしれない。結局は自分の器が自分があると信じて疑わなかったよりもずっと小さかった、ただそれだけのこと。」という考えがスッと頭に入ってきました。 そう考えると諦め(仏教的には明らめというのかもしれません)の気持ちというか、もうそんなに頑張らなくてもいい、人から見たら惨めな失敗の人生かもしれないけど、足るを知るで手に入ったものに感謝して、満足して、楽しく暮らしていけばいい、と思う一方で、やはり自分を、自分の可能性を信じることをやめた悔しさ、寂しさを感じるというか、そのような気持ちで生きていくと、いつか人生の終わりを迎える時に「なぜ俺は自分を信じて、少しでも挽回出来るようにと頑張らなかったんだろう」と自分の人生の時間の使い方を悔やむような気持ちを持ってしまいそうな気もしています。 そこでお聞きしたいのですが、仏教的な視点からいうと、いい諦めと悪い諦めってあるのでしょうか?違いはどのように考えたらいいのでしょうか?これが絶対正解、というのはないと思いますが、仏教ではこんな話がある、といったものでも、お聞かせいただけると幸いです。

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