人間の死後について(複数回答希望!)
お坊さんや、宗派によって答えが分かれると思うので、複数の回答をお願いします。
①人間の死んだ後の魂の居場所はどこですか?
まず、人は死後の魂は入魂儀式で位牌のに入るのでしょうか?
例えば49日に白木位牌から本位牌に「入魂」します。だとすると「遺骨」には魂は宿ってないんでしょうか?遺骨に魂が宿ってないのなら、お墓は単なる納骨施設で、お墓参りする意味も薄れてしまいます。仏壇の位牌に毎日手を合わせる方が遺族にとっても、亡き人にとってもいいと思います…
遺骨に魂が宿っているから、お墓の下で眠っていると信じてお墓参りにも行くし、また自分が死んだ時に一緒にいたいと思うからこそ家族は同じお墓に納骨するのだと僕は思いたいです。もし「位牌」に魂が宿っているなら、位牌もお墓に入れるべきですが、お墓→遺骨 仏壇→位牌というしきたりになってますよね…
死者の魂の本当の居場所はいったいどこなんでしょうか?
②極楽往生と輪廻転生
輪廻転生説:人間は死んだら、その人生の記憶は全部消されて白紙の状態に戻されて生まれ変わるんでしょうか?プラスチックやペットボトルのように、何度も0に戻ってリサイクルされるように、人間も全く別物に生まれ変わるのでしょうか?
極楽往生説:それとも浄土宗の教えのように、極楽浄土で過去の人生の記憶を持ったまま、自分の家族や大切な人と永遠に過ごせるのでしょうか?
僕は生まれ変わらなくていいから、極楽往生説を信じたいです。
大切な家族との思い出も、大切な人さへも、自分が誰だったのかさへも忘れてしまうなんて、余りにも虚し過ぎます(涙)
質問は人間の死後の「魂」についての上記2つです。
宗派や考え方でお坊さんによって違うでしょうが、複数のお知恵を拝借願います。
人の死について、死後の世界はあるのか?死んだ人は生まれ変わるのか?なぜあの世から帰って来た人はいないのか…など。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんばんは。
お坊さんによって答えが違う事で、「仏教なんていい加減なものだ」なんて思われないために、先に書いておきますが、お釈迦さまは死後の世界について積極的には説いていません。これは、仏教が「死んだらどうなるか」ではなく「生きている今どうするか」を説いた教えだからです。お釈迦さまがお弟子さまから死後について質問されたときどのように答えたかについては、こちらの文字制限の都合で書ききれませんので「毒矢の譬え」で検索してください。
したがって仏教的な立場でいえば、①も②も明確な答えは持ち合わせていません。
①についてですが、あなたがお骨に魂が宿っていると考える事で安心するならば、お骨に魂が宿っていると考えて良いと思います。逆に「あんなに真っ暗な石の下に入りたくない」と考えているならば、お骨には魂は宿らず、墓石や位牌に宿ると考えればいいでしょう。「位牌に魂が入っていなければ意味がない」と考えているならば、お骨にも位牌にもお墓にも宿っていると考えれば良いと思います。ろうそくの火を他のろうそくに移すと、両方とも火がついて同じ明るさになります。魂もそのような性質があると考えてはいかがでしょう。位牌やお墓をいつでもお話ができる電話に例えることもあります。
②についてですが、あなたが極楽往生説を信じたいのでしたらそれで良いと思います。私は他のお寺さんで法話をさせていただくときに、話の最初のつかみとして、死んだあとどうなると考えているか、とアンケートをしますが、「地下にいる」とか「上空にいる」とかあなたのように「極楽浄土にいる」とかいろいろです。全員正解という事です。
私は、みなさんに苦しい気持ちを取って安心な気持ちになってもらいたいと思っています。見えない世界の事で不安になってはつまらないものです。死後の世界についてはあなたが「こう考えれば安心だ」というのが正解と考えて良いと思いますよ。それが他人と違っていてもそれを否定するようなものでもないと思います。
山の頂は一つ。
でも登山口や登山道がいろいろあるように
仏教における宗派も同様にいろいろあって
各々が自分の好きな道を歩むものだと思っています。
浄土真宗であれば
亡くなれば西方浄土に往生して成仏します。
他のものに生まれ変わることはありません。
即時に往生しますから
49日まで魂としてこの世をウロウロすることなく
有縁の方々を導く仏として還っています。
そういうことを
科学的に証明などできませんが
私は浄土真宗の道が好きです。
質問が間違っているように思えます
たくさんの意見を聞いて、どれが最もまともか、あるいは自分の気に入るか、自分が決めよう、ということでしょうか。
幸か不幸か、釈尊には明確な一つの答えがあります。のちの人びとがいろいろ意見を加えました。たくさんの意見を聞くと、明確なたった一つの答えを含むその他もろもろの意見が出るかもしれません。好みでどれを選んでも構いませんが、私は釈尊の答えをご紹介します。
釈尊は魂とか我とかはないといっています。ないものを主語にして「我はない」というのもバカバカしいので、「すべてのものが我ではない」という言い方にしています。
釈尊は、生命は輪廻するといっています。生命は、悟るまで、五道あるいは六道に輪廻し続けるといっています。
我とか魂のない生命ってどういうことかといえば、心も体も一瞬たりとも留まれず、刹那生滅し続けているのです。「死」んでも続くから、輪廻だというだけです。
が、それを自分でも観察できたら、それで悟りで、釈尊の言葉を参考にしているうちは、まだ完全に分かったとは言えません。修行して心を研ぎ澄ませて、それを目指します。
スマナサーラ長老の『無我の見方』『無常の見方』『苦の見方』(いずれもサンガ)、
往生と輪廻については、
藤本晃の『浄土真宗は仏教なのか?』(サンガ)が参考になると思います。
質問者からのお礼
光輝さんのいう、「こう考えれば安心だ」と思える答えが正解なのかも知れません…だからこそ、信仰の自由があるのですから。
死後の世界の事は「誰にもわからない」というのが唯一の真実なのでしょうね。
なぜなら、帰って来た人は今だに誰一人いないのだから…
残された人もいつかは、亡くなった方々のように死ぬのだから。
人間に「死」がある限り…