仏教の妄想について
こんばんは。智慧を貸してください。
私は自分自身の目、鼻、口、耳、肌で感じるものが事実・真実
頭の中の考えごとや不安、過去や未来のことが妄想と認知しています。
しかし、ネットやテレビなどで観るニュースや事件等は、世の中の何処かで起きている事実…
頭の中でそのニュースに対して考え事をしてしまい、これは事実か妄想かと幾度も捉われてしまいます。
人から事実か妄想か自分で結論を出したことはあるのと聞かれた時、テレビ・ネットでニュースを見たということは事実で、それについて深く考えだすと妄想だと思うと考えを口にする事は出来ました。
その時は、自分はこう考えているのだなと理解して悩みが消えるのですが、少し経つと同じように事実か妄想かと悩んでいます。
長い間、同じ疑問や自分の中の問題にモヤモヤしてしまっています。
長くなってしまい、ごめんなさい。お力を貸してください!
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『事実はひとつじゃない』。
こんばんは。
浩文(こうぶん)です。
うーん、、
実験してみますか。。?
例えば、”今”私がこうして
ここに回答していることは「事実」ですね。
見えますでしょ?
読めますよね。
でもこれ、
『例えば、”今”私がこうして
ここに回答していることは「事実」ですね。』
って私(くろさん)が読んでいるときには
浩文和尚はもう投稿し終わってるから
”今”ではないんだよな。『 』の中のことも妄想なんだよな。
ってなるじゃないですか。
でも浩文和尚からしたら実際に今こうして投稿してるわけですよ。
ということは『事実か妄想か』というよりも
くろさんの見ている事実は
浩文和尚の見ている事実と違う。
『事実はひとつじゃない。』
と考えた方が分かりやすいんじゃないかと思います。
ですからネットニュースも
見ている人の数だけ事実がある、と見れば
『自分の事実と、自分以外の事実がある。
そして自分以外の事実は触れようがないから、そこは想像するしかない。』
妄想も、その考えている”内容”を指して妄想ということはできるけど
考えているという”こと自体”は事実なわけじゃないですか。
そんなふうにして
妄想していた内容(仮説がそうですね)が、調べてみたらどうやら事実に近いらしい(実証)、とか。
事実だと思っていたけど妄想だったとか。(例:お金は”事実上”タダの紙だから、お金に価値があるというのは妄想。妄想だけど皆が価値があると信じてるから、”事実上”価値あるお金として使える。←やっぱり事実はひとつじゃない。)
きりはないですよ。確かにきりはないんですけど。
実際に調べてみて、少しずつ分かっていくことなんだろうと思います。
それでよいのではないでしょうか?
くろさま、こんにちは。
哲学してますね。いわゆる、伝聞にて得た情報が真実かどうか、ですが、仏教でも、真実とされることの根拠として、
1.直接知覚 (くろさまのいう、五感で知覚することですね)
2.推論(言葉と言葉の関係、因果関係から導き出すことですね)
3.随経書(お経に書いてある、信頼に足る人が言っているから)
と、分類されています。くろさまのおっしゃるニュースのお話は、この、3番に近いですね。科学者からすると、そんな曖昧なことが根拠になるのか、っといわれてしまうかもしれませんが、実際、私たちは、情報源によって、その情報を信じるかどうかは大きく左右されます。
「修行をすれば、苦しみを無くすことができます」
こんな一文をとっても、怠けている人がいうのか、一所懸命に修行に励んでいる人がいうかで、ずいぶん、聞く人の印象も変わることでしょう。言葉の奥にひそむ、その人自身の生き方から、信じるに足るかどうかを、人々は見ます。
ニュースを報道されている方も、誤った報道をすれば信頼を失いますから、それなりの責任や使命感をもって報道しているでしょう。報道している、としましょう。
と考えますと、素朴にいえばひとまず、報道されていることを真実と取ることには、それなりの合理性がある、といえるのではないでしょうか。
もちろん、見方によっては、様々な真実も出てくるでしょう。つまり、A事件については報道したが、B事件については報道しなかった…この、「報道しなかった、語らなかった」ということからも、報道者の意図や志向性が見えてきたりしますね。
また、仏教では、世間で素朴に「真実」とされることも、「諸行」(縁によって作られたもの)の1つとして扱われますから、真実と思っていることでも、それはしばしの間のことで、縁がなくなれば、真実ではなくなってしまったりします。「虚妄なる法」なんて呼ばれたりします。「妻は若い」と五感で知覚はしていても、変わりゆくそれを見れば、真実ではなくなってしまいますものね。
着地点が見つかりませんが、とりあえずこんなところで!
事実と妄想の区別は大変
初期仏教のアビダルマの視点からお話します。
まず、細かいことですが、順番は、目、耳、鼻、舌(味わい)、身(接触)、意で覚えると良いと思います。最初の五つは外界を含む物質的な情報を得る質・量ともの重要性に寄ります。天界では鼻からの香りさえ下位の天界にしかなく、上位では音と光だけを楽しみます。逆に餓鬼界、畜生、地獄は光や音を楽しめず、ひどい匂い、味、苦痛を感受します。人間は、機能としては五根すべて、しかも楽も苦も感受します。
五根から感受したものを受けて、そして意自身で、いろいろ妄想します。
というわけで、初期仏教のアビダルマでは、外界や物質(体)から五根が何であれ感受したところは、まあ、事実。意が五根からの情報を感受したり自分で考えたりする活動自体も、まあ、事実、と見ます。で、意が考える内容や持ってしまう感情は、ほとんど妄想で、わずかに、論理的で苦の滅に進む思考、すなわち悟りに導く思考だけは、妄想とは言いにくいということになります。
詳しくは、スマナサーラ長老の『ブッダの実践心理学』全七巻(サンガ)をお読みください。
質問者からのお礼
浩文和尚様、Ryuko様
とても早く御回答頂きまして本当にありがとうございます。
自分では辿り着けない御回答を頂き、とても嬉しく思っております。
お忙しい中、私の質問に御回答していただき本当にありがとうございました!
藤本晃様、御回答していただきありがとうございます。
とてもわかりやすく説明していただけて、モヤモヤがすっきりしました。
より、仏教を学びたくなりました。
ご紹介いただきました、スマナサーラ長老の本を読ませていただきますね。
お忙しい中、私の質問に御回答していただき本当にありがとうございました。