座禅で諸行無常を感じるのは本当ですか?
禅について。
座禅をしてると、この世と一体となった感覚というか、諸行無常が感じられる瞬間があると聞きますが、それは本当ですか?体感しましたか?
私は、虐待という辛い人生経験をして、きっと自分が辛いのは前世で悪いことしたんだなと気づきました。
仏教の初歩ではありますが、因縁自覚したという感覚があり、仏教の輪廻転生や諸行無常を信じてますし、感じてます。
座禅をすると、それ以上のことを感じられたりするのでしょうか?
それとも、因縁自覚があれば、座禅してもそれが深まるだけなのでしょうか?
というのも、私は読経や写経や掃除などはしますが、座禅が苦手で、一番続いたものでも20分くらいしありません。
このまま座禅を続けていて、その先に今までの価値観が変貌するようなものかあるか気になったからです。
どうか教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
希望という先入観もなくただ観察すべし
座禅の只管打坐の意味は分かりませんが、仏教共通の止観の観(ヴィパッサナー)瞑想と同じ要領だと推測して説明します。(止・サマタは一点に集中して一体感を味わう禅定を求めるもので今は関係ないと思います。)
ただ座って、自分の体や心に何が起こるのか、一瞬ごとに変化する感覚をただ観察し続けることが観瞑想のポイントです。
因縁自覚、諸行無常、その延長とも言える輪廻転生などの「教義」は、釈尊が観瞑想で発見した本来言葉にできない真理を無理やり言葉にまとめて教えたものです。そういう言葉のイメージを先に心に持って坐ると、現実の一瞬ごとの体の感覚や心の動きから逸れて自分の思考にとらわれてしまうので、坐る時は忘れてください。
ピタッと坐って落ち着いていられるなら、あるいは最初は、身体を動かさず固定しているはずなので、おなかの膨らみ縮みが唯一の変化する感覚で、それを膨らみ、膨らみ、膨らみ、と、一瞬ごとに観続けます。膨らむと動詞にするのはだめです。「私のおなかが」膨らむ、と、私という妄想が自然に入るからです。一瞬ごとに変化する現象たちを、客観的に、自分は外から観察する感じで、すべて捉えるつもりで、思考が湧かないように、ただ、観察だけし続けます。
途中で痛みとかしびれが入ったら、決して体を動かさず痛み、痛み、痛み、とか、しびれ、しびれ、しびれ、とか、どんな感覚か表現できなければ、右手小指、右手小指、などと、ただ、一瞬ごとにどれかの感覚にピタッと集中して見続けます。
二十分でもいいですから、タイマーをかけて、この時間は絶対動かないぞ、と固い決意で臨んでください。
終わってから、一人反省会をしてください。この瞑想の間にこういうことがあった、ああいうことがあった、あれは何だったのだろう、と、ここで初めてしっかり考えて、自分の考えをまとめたり、仏教の本などで調べてください。「ああ、この急激な変化生滅が無常ということだろう」などと、後から、教義と結びつきます。
禅宗ではやり方を教えることが少ないので、初期仏教の観瞑想について、スマナサーラ長老の詳しいやり方を学びながらやると良いと思います。
『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】: ブッダが教える実践ヴィパッサナー瞑想』という本が良いと思います。
それより僕と踊りませんか
○○○になりたい。
□□□の状態を目指す。
△△△でなければならない。
と、力んでいるうちはちょっと難しいかもね…
休む事も許されず 笑う事は止められて
はいつくばって はいつくばって
いったい何を探しているのか
探すのをやめた時 見つかる事もよくある話で
『夢の中へ』作詞:井上陽水 作曲:井上陽水
<追記>
"お坊さんのそういう煙にまくような答え"
ま、彦摩呂さんの食レポと同じですね。どんなに言葉を尽くして形容したところで、結局、未体験の者には体験するまではわからない。
"それでもやはりそれが私がわかってないことなのですかね"
まー、そういうことです。
"完璧は無理ということでしょうか?"
完璧とは?
道次第(ラムリム)
テトラさま
追記・・坐禅、瞑想における主客一体の体験はまあそこそこ誰でもある程度ございます。しかし、それを悟りの体験と勘違いしてしまう人が多いのですが、正直、ほとんど大したことのないものであります。一時的に煩悩が凪のように止んでいるだけで、その体験から出れば結局はまた煩悩が出てきてしまうことになっていますから。根本的な悟りの妨げとなっている煩悩障と所知障という二つの障りをどのように断じていくべきであるのか、そこをしっかりと見極めていかなければなりません。禅定はあくまでもそのほんの一つの方法でしかないのであります。
・・
坐禅は、禅定のための一つの修養であり、それだけで仏道が進むというものではありません。
特に大乗仏教においては六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)をバランスよく修習していくことが求められるところとなります。
坐禅はあくまでも禅定のための一つの方法であり、それも止観の実践についてしっかりと学ぶことからしないといけません。
その前になぜ止観の実践が必要であるのか、ということを理解しないといけません。
読経や写経、掃除もそうです。
単純には、置物のような坐禅、カセットレコーダーによる読経、コピー機での写経、ルンバの掃除であっては、何も変わらないというところであります。(つまり、間違った三昧では全く益にならないという譬えであります。)
無理に、何となく進めるのではなく、どうしてそれが必要であるのか、自分にはどういった方法、道筋があるのか、そこから納得して進めることが重要となります。
悟りへの階梯へ向けた学びについては、道次第(ラムリム)が大変役に立つものとなります。
その中でも、ツォンカパ大師の菩提道次第論を学ばれると良いのではないだろうかと存じます。
ご参考下さいませ。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
ですが、お坊さんのそういう煙にまくような答えは、ほとほとうんざりなのですが、それでもやはりそれが私がわかってないことなのですかね。
完璧は無理ということでしょうか?
完璧に座禅を40〰50分続け“なければならない”と思ってましたが、不格好でも脚が崩れても、まず続けることを意識してみます。
そういうことなんでしょうか?見当はずれでしょうか?
ですが、ご回答いただけたことで、少しやってみようと思えました。
ありがとうございます。
追記ありがとうございます。
少々言葉が悪くなってしまい申し訳ありません。
続けてご回答いただけたお二方も、ありがとうございます。
お話を聞いてみると、どうやら、私が独学で禅を学ぶのは少々難しそうです。
おすすめ頂いた本も読みながら、座禅会などにも参加してみたいと思います。
丁寧にご回答いただいてありがとうございます。
ほんの少しだけ、お寺ではこういう教え方もされるのかな、ということも味わえました。ありがとうございます。
何度もすみません。禅には「止観」という概念があるのですね。勉強不足でした。
観る?ことに没入して、内と外の境界がなくなりそうな感覚を味わえました。
これが進んで内と外の境界がなくなり、縁起を体感することが禅なのでしょうか?
川口 英俊さま
さらに追記でお答えくださりありがとうございます。
やはり六波羅蜜をバランスよく修養し、日々精進ということですかね。
ありがとうございます。納得できました。