潔癖症
いつもお世話になっております。
びっくりしたことがあるのですが
良寛さまは、自分の懐でノミやシラミを大事に育てたりされていたそうですね。
またインドのガンジス川には大変汚い物が流れているのにもかかわらず
平気で河で沐浴されているそうです。
自分には考えられない話でございます。
自分はたいへんきれい好きで、
あんまり洗ってない靴を使うのをためらったり
洗濯をまめすぎるぐらいしてしまいます。
きれい好きが良い結果をもたらすなら良いのですが
気になってしまうあまり、心に負担がかかってしまって
心が汚くなるというか、自分にとってなにも収穫がなく
生活に少しばかり支障がでてきていました。
このままじゃいけないと思ったときに
良寛様やインドのお話に出会って
自分はいままでの方針を転換して
潔癖な自分、きれい好きな自分と決別したいと
思うようになりました。
ちょっと大それたことをいうようですが、
良寛さまのように身体の美しさよりも心の美しさを
大事にするような人間になりたいのです。
そこでぜひアドバイスをお願いしたいと思い投稿させて
いただきました。なにとぞよろしくおねがいします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
・ ← これを綺麗にしてみてごらんなさい
・ に綺麗も汚いも元々ありませんが。
あなたのシャツに・がついたとしましょう。
せっかくの生地に ・ 汚れがついてしまった。
拡大してみましょう。
。
さらに拡大してみましょう。
○
もっと拡大してみましょう。
〇
もっと大きく
◯
更に大きく。
( )
・・・もっともっと
するとその汚れは、「なにかについた汚れ」ではなく「それそのもの」になります。
いつから汚れになったのでしょう。アナタは何かと比較し清濁、浄穢の隔ての心を以って観ているからそれを不浄とみなすのです。
それでは観念的生き方であるということ。
禅寺の修行道場ではではトイレ掃除を素手でやる所もあります。
清濁、浄不浄の観念を離れるのです。
もし、それに触れると毒で健康を脅かす、というものでもない限り本質的にはきれいも汚いもないのが法の姿。
誰であろうがいつかは年老いた自分の親の下の世話をする日が来ます。
それを汚いだのなんだのという処をうろついているようでは人間としても半人前です。
心が自分の都合で勝手にそれを汚す瞬間がある。
目玉はそれを観て0・0001秒の時はきれいだの汚いだの言わないぞ?
誰が(何が)それを汚いものとしているか。
自分の中の「不浄イメージ」をオプションとしてラッピングしている瞬間に気づくまでは、しっかり心の内側を観察してみてください。
みんな一緒
優れた料理人の条件として「清潔感」を挙げる方が多いように、職業によっては潔癖症くらいがちょうどいいものがあります。ですので無理に変える必要は無いと思います。
ただ、
>自分にとってなにも収穫がなく生活に少しばかり支障がでてきていました。
というのは、問題ですね。
身体の美しさよりも心の美しさ、という考えを10代で持たれることは大変立派です。でも、どちらにも優劣は無いのです。映像も音楽も文章も、コンピューターの世界ではゼロとイチであらわされるように、世の中にあるもの、私たちが目に見えるものも目に見えない物も、仏さまから見るとみんな同じなのでしょう。
ちょうど今(5月初め)は新茶の季節です。お茶の葉が茶畑にあっても、茶筒にあっても、急須から三角コーナーの生ごみに移っても、どれもみんなお茶の葉です。まずは、きれいや汚いというより、みんな一緒なのだ、と見てみてはいかがでしょうか。
キレイ好きをキライにならないで
hibikukagayakuさま
なごみ庵の浦上です。
ちょっと過剰なぐらいきれい好き。そのお気持ち、よ〜く分かります。私も少々きれい好き過ぎる面があって、時々自分でもイヤになります。
それが自分の中だけで済めばいいのですが、自分と同じようにきれいに出来ない人を見ると「イラッ」としてしまったり。おそらくhibikukagayakuさんの「生活に少しばかり支障」というのも、こういった事ではないかと想像します。
でも、きれい好きはhibikukagayakuさん個人の問題というよりは、日本全体の指向ではないでしょうか。テレビCMでもスーパーでも「除菌・殺菌・消臭・無臭」という言葉があふれ返っています。日本全体があまりにきれい好きすぎて、かえって小さい子の免疫力が低くなってしまっているそうです。
さて、現代の日本ではどんなに心が美しくても、ノミやシラミを育てていたら人から避けられます。河で沐浴してても「なんだアイツは」となってしまいます。hibikukagayakuさんだけでなく、ほとんどの日本人にとって「考えられない話」だと思います
アドバイスを、とのことですが、頭で「これぐらいの汚れは大丈夫」と思おうとしても、なかなか難しいと思います。実際に、細かいことを気にしない(できない)環境に身を置いて、身体で馴染むのが良いかと思います。
ハードな運動部の合宿や、自転車とテントでの旅行、それこそインドや東南アジアの旅行など(簡単には行けないでしょうが)もいいでしょう。
最後に話は変わりますが、キレイ好きな自分を、どうかキライにならないで下さい。基本的には悪いことではないのですから。
「いい加減」ではなくて、「良い加減」を目指す
hibikukagayaku様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「潔癖症」でお悩みのご様子・・
衛生的なことを考えますと、何事も綺麗にして清潔に保つに越したことはありませんが、それが色々と度が過ぎてしまって、心への負担、ストレスとなり、また、生活への支障や弊害が生じてしまう程となれば、やはり少し考え直していかなければならないように存じます。
ただ、無理して生来のきれい好きな性格を変えるとなれば、逆にそれがより心への負担・ストレスになってしまうこともあり得るため、それほど性急に極端にまで性格を変えようとなされることもないかとは存じております。
仏教では特に極端を避けるための「中道」を歩むことが望まれることとなります。中道は「いい加減」ではなくて、「良い加減」、「良い塩梅」を目指すことが求められます。負担、ストレス、支障・弊害のない範囲でなさられますことをお勧め申し上げます。
また、「○○障がい」・「○○症」・「○○依存症」といったものに、変にマイナスに囚われてしまわれずに、私たちそれぞれにおいてのより良い幸せのためには、それぞれの心をより良くに変容させていくことが必要となります。このことも少しご理解頂けましたら有り難くに存じております。
問い「女なのか、男なのか。」
http://hasunoha.jp/questions/470
『・・「障がい」と言ってしまうと、どこか嫌悪感が生じてしまうかもしれませんが、本来、現代社会で一概に規定されているような「障がい」の有無に関係なく、私たちは皆一様に、無明(根本的無知)・煩悩・悪業(つまり、煩悩障・所知障)という障り、つまり、「障がい」を抱えており、日々生きていく上で様々な悩み・迷い・苦しみがあるかと存じます。
それをこれは「障がい」で、これは「障がいではない」と一律に決めつけてしまうのではなくて、そんなことよりも、それぞれにおいて、その心のありようを改善させ、成長させていくことにより、悩み、迷い、苦しみを解決させて、より良く幸せに過ごすことができるように調えていくことが大切になるのではないかと存じております。
仏教は誠にその一助として良き処方箋になるのではないかと存じます。是非この機会からも学びを進めていかれますことをお勧め申し上げる次第でございます。・・』
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
丹下覚元さま、いつも大変お世話になっております。
綺麗・汚いという俗見を離れるように努めようと思います。
自分の偏見で不浄とみなさないように気をつけます。
ほんとうにありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
なごみ庵の浦上さま、いつも大変お世話になっております。
きれい好きの自分を嫌いになって
自分を責めて辛くなっていましたけれども、
浦上さまのお言葉で気が楽になりました。
機会があれば、東南アジアやインドを訪れてみたいとおもいます。
ほんとうにありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
増田俊康さま、アドバイスありがとうございます。
「きれいや汚いというより、みんな一緒なのだ、と見てみる」
なかなか難しいですが、そんなふうにみるようにこころがけます。
ほんとうにありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。
川口英俊さま、アドバイスありがとうございます。
○○症に自分は毒されていました、ご指摘のとおりでございます。
これからも仏道に励んでまいります。心をより良くに変容させていくよう精進いたします。
ほんとうにありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。