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ストレスに負けそうです

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私は子供の頃から親にも妹弟にも誰にも悩みを打ち明けたり相談することが出来ずに一人で悩みを抱え込んでしまうクセがあります。

大人になった今でも大して状況は変わっていません。親なんかは私が落ち込んだり悩みを抱えている素振りを見せようものなら心配してくれるどころか物凄く怒ります。妹や弟が居ても悩みを打ち明けられないのは同じです。

友達は数人居ますが相談出来る暇もないですし、遠方に住んでる友達が殆どなので相談出来ないのはこちらも同じです。

実は最近一人だけやっと相談出来る方がいたのですがその方もここ数ヶ月間忙しくなってしまいまともに話しが出来ない状態です。

やっと相談することが出来る人を作れたと思った矢先にまた以前と同じ状況に戻ってしまったために物凄くストレスを感じています。

会社でのストレスもかなりあります。今勤めている職場は個人個人の生産性(成績を)を毎週ホワイトボードに貼り出すんです。そして上司からは毎週生産性が上がっていないことの理由を聞かれたり…物凄く神経を使う職場です。

気分が落ち込まないように休日には外出をしたり近くにあるお寺さんに出掛けて気分を落ち着かせたり瞑想や写経など色々やってはいるのですが直ぐに気分が落ちてしまいます。

そのせいかちょっとした事にもストレスを感じたり頻繁に泣いたりしています。以前は殆ど泣くことはなかったのですが。気分の浮き沈みが激しくてどうにかなってしまいそうで恐いです。

こんな質問で申し訳ありませんが何かいいアドバイス等がありましたら宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ストレスを 「やれストレスだ」と ストレス化させない

断言しましょう。
日本人の9割は、ストレスという言葉の暗示にかかっているだけです。
何処にストレスがあるのでしょうか。
今、現にないものを運び来たって「ストレス」だと思い込んでいる。
無かったものを、出現させる。
そこに元々無かったものを、過度に認めてそれを「ストレス」だと思い込む。
私も昔は「ストレス」を過剰に認めて、よく苦しめられたものです。
本当の苦痛とは、その時、その場、その瞬間だけなのです。
それ以降はみんな自分の、過去のリプレイや、いまだ起こらざる未来へのネガティブイメージなので、実際にそこで起こっていないものを相手にしているだけなのです。
以下のことを良く念じてください。
・あなたが問題視・問題化させなければ、そこに問題は生じない。
・あなたがストレス化、ストレス視しなければ、それはただの出来事。
坐禅や瞑想は指導者が大切です。
誰でも良いというものではありません。ちゃんと悟りを得ている僧侶の元でないと、漂流してしまいます。
都内でしたら恵比寿の福昌寺、中野坂上の成願寺に井上貫道老師が指導される禅会が開かれています。参加なさってください。遠くて良ければ埼玉までお越しください。(^<^)
あなたを一番責めたり、苦しめているのはあなた自身の後追い思考です。
上司からの怒られも素直に聞けるようになるために、自分の思いを重ねずに聞けるようになると良いです。自分の思いを重ねて聞いてしまっていると思います。自分を介入させずに処せるようになれる道が仏教のエスプレッソ「禅」です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

かりんさま

悩みを相談したいのですね。
直接お話をゆっくり聞いてくれるひとがほしいとのこと。
お寺さんに日頃から写経などで足を運んでいらっしゃるなら、そこの住職さんに人生相談に乗ってもらったらどうでしょう。

そこのお寺さんで聞いてくれるかどうかわかりませんが、信用できそうな方なら、聞いてくれるのではないでしょうか。
本来お寺はそういう場所ですから、一度声をかけてみてはどうでしょうか。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

お返事が遅れましてすみません。早速のご解答ありがとうございます。
お話しをしてみようとは思ってはいますが御護摩が終わってしまうとお坊様方は直ぐに戻られてしまうし、お忙しそうにしていらっしゃるのを見るとお声掛けしてもいいのかと遠慮してしまいます。

ご回答ありがとうございます。

そうですね…問題視しなければいいものをつい問題視してしまう自分の考えがいけないことは重々承知しています。
その考え方を直そうと半年ばかり前から色々と初めてはいますがまだ迷走している感じですね。禅修業はまだしたことがないので挑戦してみたいです。埼玉は少し遠いですが検討してみます。

因みに瞑想はお坊様から直接指導をうけたものをやっています。

追記

お忙しい中、ご回答下さったお坊様方には改めて心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
真摯に受け止めて精進してまいります。

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