仏教による感覚及び主体の分析
お坊さんたちに4つ質問がございます。
どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。
①
人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。
②
人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。
③
人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。
④
「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
自分の納得がいくまで、物事や行いに対してこだわってしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
見、慢、我
①人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。
自分の判断は自分の見解(見)で、それは自分では大好き(欲の煩悩)で、良いもの(他と比較する慢)と思っています。その根底に「自分がいる(我=無明)」という気持ちがあります。我⇒慢⇒見まで一本道なので、見解を否定されると自分(我)が否定された気持ちになります。
②人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。
否定されたくないからです。自分が要らないと思われるのは誰でも嫌です。
③人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。
「自分(我)」がある、あるいは強いからです。「自分(我)」という気持ちが少ない人は苦しみも少ないでしょう。「人には人の意見がある。私の意見と合わなくて否定されちゃった。仕方ないね」で済む人と、「俺はあの人にダメ認定されてしまった。もうだめだ」と落ち込む人の差は、「自分(我)」の強さの差だと思います。
④「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
とても忙しいプロセスを感じ取れないので無視して「私」とか「主体」があると思い込んでいるだけです。一瞬ごとの感覚やそれを受けた思考の連続が、あまりにも連続なので「私とか主体」がそれを感じて思考していると思っています。実際は、瞬く間の感覚や思考の連続で、いわゆる観察瞑想ヴィパッサナーで観察して、「私」さえもない、と分かったら、諸法無我だったと分かります。まあ、悟ったということになります。
詳しくは、スマナサーラ長老の『無我の見方』『無常の見方』『苦の見方』などに、その仕組みが分かりやすく説いてあります。
分析理解し、手放す。
返信
字数が足りなくてー。
その理解でいいです。
お釈迦さん、現象だけ見て、「主語」を落とすんですよね。
いったい何が?という回答をもとめるのを、実体的になにか「ある」前提の問いとして、退けました。
お釈迦さんは、主体が「なに」か求めない。答えない。表現しない。
その問いは誤り(実体視)にしかならないからです。
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好きなことを否定されて、嫌なのは自然だと思います。
でも、その嫌っていう反応が激しいなら、
①②③は、親、保護者との記憶ではないでしょうか。
その反応は他人にもでてしまうのかもしれません。
保護者に認められず、意見が通らない。願いが叶わない。
押し殺してきた気持ち、理解されなかった辛さとか、さまざまな思いが、消化不良みたいに残ってるのだと思います。
一つの解決法をいうなら、思考の領域での保護者の支配下、保護下を抜けるため、自分で決めたことで、小さくていいので、結果を出していくことだと思います。
では、④感覚と主体の諸法無我の実感はどうか?
これは理解と実践あるのみだと思います。
ただし、実は「無我」と言っても、行為の主体、および責任はお釈迦さまも否定していません。
お釈迦さまが否定するのは主体への「執着」です。
私たちが、自分(主体)にこだわる時、その「自分」とは自己イメージです。
自己イメージはいろんな感覚、感情などを、頭(記憶)でつなぎ合わせて作られます。
よ〜く観察すると、”自己”は無く、パーツのみある。これが「無我」です。
でも自己イメージ=「我」を守るために、我々は日夜悪戦苦闘し、疲弊しています。
無我の実感とは理解し、手放すことです。
この自己イメージ(我)への執着を離れたとしても、瞑想する主体は消えません。
さて、次に自己イメージのパーツ、「感覚」ですが、すべての感覚も移り変わり、過ぎ去っていきます。
それを「無常」といいます。
人は永遠を求めます。しかし、この世は無常で我が命すら思い通りにならない。
無常なものは我がものではなく、感覚も流れ去っていくとお釈迦さまはいいます。
流れ去った後、残るのは記憶です。
仏教の文脈では、感覚が流れ去らないように感じるなら、それは記憶をもとに、その感覚のことを考え続けているからとなります。(フラッシュバックは除く)
一つの考え
慈陽院の平本と申します。
仏教には、いろいろな解釈がありますので、色々な方を参考にしていただければと思います。
①
人には、欲という思い通りにしたい意識があります。この思い通りにしたい意識は、外界の情報を自分にとって都合の良いように解釈します。
そして自分が正しいと判断したものを否定されると、思い通りにしたい意識を否定されたと感じ、まるで自分自身が否定されたような錯覚に陥るのだと思います。
②
人は、それなりに自信やプライドをもっていますが、その自信やプライドが高いと絶望を強く感じます。だからといって自信がないと不安を生み出すのでなかなか難しいのです。
③
主観的な自分が強ければ強いほど、自分の思い通りにしたい意識に振り回され、どんどん苦しくなってしまいます。
しかしそもそも人は、不完全であるので間違える事も当然ですし、また逆に相手が間違った意見を言うこともあります。つまり否定されたときに、思い通りにしたい主観的な自分からはなれて、客観的にまるで他人ごとのように物事を見たり聞いたりすることができると、自分の思い通りにしたい意識に振り回されなくなりますが、これがなかなか難しいのです。
④
ざっくり言ってしまえば感覚も主体も無我になります。ただこの無我を完全に感じることは、できないと思っています。
ただ無我のような感覚を感じることは、可能だと思います。
質問者からのお礼
まさかお二人もこのように早急なご返事をいただけるとは思っておらず思わず驚いてしまいました。心から感謝を申し上げます。
しかし、やはり④に関してはまだ支えが残っております。
沙門 一緒さまのご回答の中に「仏教の文脈では、感覚が流れ去らないように感じるなら、それは記憶をもとに、その感覚のことを考え続けているからということになります。」というものがありますが、その文中の「記憶をもとに、その感覚のことを考え続けている」と記されているところに私の疑問があるのです。
この「記憶をもとに、その感覚のことを考え続けている」ということを行っている「正体」とも言えそうな、または「力(ちから)」とも言えそうな、その瞬間その瞬間のリアルタイムにおいてどうやっても客観視不可能な「これ」はいったい何なのでしょうか? いったい何が「記憶をもとに、その感覚のことを考え続けている」ということをさせているのでしょうか?
そして、やはり「これ」もあくまで「諸法無我」に過ぎず、藤本晃さまが記されているような「思い込み」のようなもの、つまり、様々な要素や動きによってもたらされる産物としての「錯覚」でしかない、という理解でよろしいでしょうか?
また、この理解は瞑想(禅定)をすることによって実感としてもわかってくる(何の疑いもなく体得する?)、という理解でよろしいでしょうか?
なんだか質問することにキリがなくなりそうですので、これ以上及びこれ以降の質問は自粛します。
お時間が許せる限りで構いません。お返事の方、何卒よろしくお願いします。
平本優眞さま、お返事ありがとうございます。
hasunohaでのいろいろなお坊さんの意見はとても参考になるものばかりです。
私は仏道を学んでまだ数ヶ月しか経っていない初学者ですが、まさに目から鱗が落ちる(これは聖書の言葉ですが笑)が如く、どんどんと物事への新しい見方が養われていくことを実感する毎日です。
これからもこのhasunohaを大いに活用させていただきます。
改めて、お返事いただきありがとうございます。
沙門 一緒さま、再びお返事くださりありがとうございます。
「お釈迦さん、現象だけ見て、「主語」を落とすんですよね。」
「その問いは誤り(実体視)にしかならないからです。」
この2文でハッとしました。
主体を定義づけても結局それは妄想、錯覚に過ぎないのだ、と。
故に、「只々あるがままに現象を見よ」という術しか選択の採りようがないのだ、と。
貴重なお時間を割いて応じて下さり、本当にありがとうございました。
訂正
誤→「只々あるがままに現象を見よ」
正→「只々あるがままに現象を見る」