hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

仏教による感覚及び主体の分析

回答数回答 3
有り難し有り難し 32

お坊さんたちに4つ質問がございます。
どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。


 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。


 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。


 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。


 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。

2021年2月23日 19:17

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

見、慢、我

①人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。

自分の判断は自分の見解(見)で、それは自分では大好き(欲の煩悩)で、良いもの(他と比較する慢)と思っています。その根底に「自分がいる(我=無明)」という気持ちがあります。我⇒慢⇒見まで一本道なので、見解を否定されると自分(我)が否定された気持ちになります。

②人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。

否定されたくないからです。自分が要らないと思われるのは誰でも嫌です。

③人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。

「自分(我)」がある、あるいは強いからです。「自分(我)」という気持ちが少ない人は苦しみも少ないでしょう。「人には人の意見がある。私の意見と合わなくて否定されちゃった。仕方ないね」で済む人と、「俺はあの人にダメ認定されてしまった。もうだめだ」と落ち込む人の差は、「自分(我)」の強さの差だと思います。

④「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。

とても忙しいプロセスを感じ取れないので無視して「私」とか「主体」があると思い込んでいるだけです。一瞬ごとの感覚やそれを受けた思考の連続が、あまりにも連続なので「私とか主体」がそれを感じて思考していると思っています。実際は、瞬く間の感覚や思考の連続で、いわゆる観察瞑想ヴィパッサナーで観察して、「私」さえもない、と分かったら、諸法無我だったと分かります。まあ、悟ったということになります。
 詳しくは、スマナサーラ長老の『無我の見方』『無常の見方』『苦の見方』などに、その仕組みが分かりやすく説いてあります。

2021年2月24日 8:08
{{count}}
有り難し
おきもち


初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...

分析理解し、手放す。

返信
字数が足りなくてー。

その理解でいいです。

お釈迦さん、現象だけ見て、「主語」を落とすんですよね。

いったい何が?という回答をもとめるのを、実体的になにか「ある」前提の問いとして、退けました。

お釈迦さんは、主体が「なに」か求めない。答えない。表現しない。
その問いは誤り(実体視)にしかならないからです。

    ーーーーーーーーー

好きなことを否定されて、嫌なのは自然だと思います。

でも、その嫌っていう反応が激しいなら、
①②③は、親、保護者との記憶ではないでしょうか。
その反応は他人にもでてしまうのかもしれません。

保護者に認められず、意見が通らない。願いが叶わない。
押し殺してきた気持ち、理解されなかった辛さとか、さまざまな思いが、消化不良みたいに残ってるのだと思います。

一つの解決法をいうなら、思考の領域での保護者の支配下、保護下を抜けるため、自分で決めたことで、小さくていいので、結果を出していくことだと思います。

では、④感覚と主体の諸法無我の実感はどうか?

これは理解と実践あるのみだと思います。

ただし、実は「無我」と言っても、行為の主体、および責任はお釈迦さまも否定していません。
お釈迦さまが否定するのは主体への「執着」です。

私たちが、自分(主体)にこだわる時、その「自分」とは自己イメージです。
自己イメージはいろんな感覚、感情などを、頭(記憶)でつなぎ合わせて作られます。
よ〜く観察すると、”自己”は無く、パーツのみある。これが「無我」です。

でも自己イメージ=「我」を守るために、我々は日夜悪戦苦闘し、疲弊しています。

無我の実感とは理解し、手放すことです。
この自己イメージ(我)への執着を離れたとしても、瞑想する主体は消えません。

さて、次に自己イメージのパーツ、「感覚」ですが、すべての感覚も移り変わり、過ぎ去っていきます。
それを「無常」といいます。

人は永遠を求めます。しかし、この世は無常で我が命すら思い通りにならない。
無常なものは我がものではなく、感覚も流れ去っていくとお釈迦さまはいいます。

流れ去った後、残るのは記憶です。

仏教の文脈では、感覚が流れ去らないように感じるなら、それは記憶をもとに、その感覚のことを考え続けているからとなります。(フラッシュバックは除く)

2021年2月24日 1:22
{{count}}
有り難し
おきもち


人生も階段ばかりじゃしんどいです。 たまには踊り場で一緒に泣きません...

一つの考え

慈陽院の平本と申します。
仏教には、いろいろな解釈がありますので、色々な方を参考にしていただければと思います。


人には、欲という思い通りにしたい意識があります。この思い通りにしたい意識は、外界の情報を自分にとって都合の良いように解釈します。
そして自分が正しいと判断したものを否定されると、思い通りにしたい意識を否定されたと感じ、まるで自分自身が否定されたような錯覚に陥るのだと思います。


人は、それなりに自信やプライドをもっていますが、その自信やプライドが高いと絶望を強く感じます。だからといって自信がないと不安を生み出すのでなかなか難しいのです。


主観的な自分が強ければ強いほど、自分の思い通りにしたい意識に振り回され、どんどん苦しくなってしまいます。

しかしそもそも人は、不完全であるので間違える事も当然ですし、また逆に相手が間違った意見を言うこともあります。つまり否定されたときに、思い通りにしたい主観的な自分からはなれて、客観的にまるで他人ごとのように物事を見たり聞いたりすることができると、自分の思い通りにしたい意識に振り回されなくなりますが、これがなかなか難しいのです。


ざっくり言ってしまえば感覚も主体も無我になります。ただこの無我を完全に感じることは、できないと思っています。
ただ無我のような感覚を感じることは、可能だと思います。

2021年2月24日 15:20
{{count}}
有り難し
おきもち


平本 優眞
横浜市神奈川区 東白楽の「倶生山 慈陽院 なごみ庵」という「浄土真宗」の小...

質問者からのお礼

まさかお二人もこのように早急なご返事をいただけるとは思っておらず思わず驚いてしまいました。心から感謝を申し上げます。

しかし、やはり④に関してはまだ支えが残っております。
沙門 一緒さまのご回答の中に「仏教の文脈では、感覚が流れ去らないように感じるなら、それは記憶をもとに、その感覚のことを考え続けているからということになります。」というものがありますが、その文中の「記憶をもとに、その感覚のことを考え続けている」と記されているところに私の疑問があるのです。

この「記憶をもとに、その感覚のことを考え続けている」ということを行っている「正体」とも言えそうな、または「力(ちから)」とも言えそうな、その瞬間その瞬間のリアルタイムにおいてどうやっても客観視不可能な「これ」はいったい何なのでしょうか? いったい何が「記憶をもとに、その感覚のことを考え続けている」ということをさせているのでしょうか?

そして、やはり「これ」もあくまで「諸法無我」に過ぎず、藤本晃さまが記されているような「思い込み」のようなもの、つまり、様々な要素や動きによってもたらされる産物としての「錯覚」でしかない、という理解でよろしいでしょうか?

また、この理解は瞑想(禅定)をすることによって実感としてもわかってくる(何の疑いもなく体得する?)、という理解でよろしいでしょうか?

なんだか質問することにキリがなくなりそうですので、これ以上及びこれ以降の質問は自粛します。

お時間が許せる限りで構いません。お返事の方、何卒よろしくお願いします。

平本優眞さま、お返事ありがとうございます。
hasunohaでのいろいろなお坊さんの意見はとても参考になるものばかりです。
私は仏道を学んでまだ数ヶ月しか経っていない初学者ですが、まさに目から鱗が落ちる(これは聖書の言葉ですが笑)が如く、どんどんと物事への新しい見方が養われていくことを実感する毎日です。
これからもこのhasunohaを大いに活用させていただきます。
改めて、お返事いただきありがとうございます。

沙門 一緒さま、再びお返事くださりありがとうございます。

「お釈迦さん、現象だけ見て、「主語」を落とすんですよね。」
「その問いは誤り(実体視)にしかならないからです。」
この2文でハッとしました。
主体を定義づけても結局それは妄想、錯覚に過ぎないのだ、と。
故に、「只々あるがままに現象を見よ」という術しか選択の採りようがないのだ、と。

貴重なお時間を割いて応じて下さり、本当にありがとうございました。

訂正

誤→「只々あるがままに現象を見よ」
正→「只々あるがままに現象を見る」

「仏教全般」問答一覧

仏教とは?

こんにちは。私はとある信仰宗教の元信者です。その宗教ではその宗教のお経を毎日よんで、法名といわれるものをおさめ、つどいと称される会合に参加し、弥勒山という山に登ります。勧誘してきた人は私の20年来の付き合いのある方で、その信仰宗教をとても心から信じていました。しかし、私はこの信仰宗教に違和感を感じていました。職場の方に話してもら辞めた方が良いという回答でした。また、旦那が私には居ましたがその宗教を毛嫌いされ、彼の親族にも激怒され縁をきられてしまいました。私は今実家で幸せに暮らしています。仕事も頑張って居ます。勧誘された方は癌で若くして亡くなりました。彼女は最後までその宗教を信じていましたが、私も彼女もそのお経を毎日読みましたが、私は離婚し、彼女は命を失いました。これのなにが幸せなんでしょうか。私には弟が居ます。まだ若くこれからどうなるか分からないですがきっと結婚するだろうと思います。義理の妹は果たして私の事を理解してくれるかと不安になり、檀家になってるお寺のお坊さんに相談しました。その方は瞑想会をしていて、瞑想すると涅槃の境地に近づけるとの事で、私は毎日するようになり、瞑想会にも参加するようになり、元の信仰宗教は辞めたい。と彼女の旦那さんや支部長に言って辞めさせていただきました。しかし、彼女には本当にお世話になったし、お経を読まないと瞑想出来ない脳になってしまったので、辞めてもお経は読んでいるし、彼女のお墓にお墓参りに行こうと思っています。信仰宗教で出会った方々とはまだLINEで繋がっています。このままいくとまた、戻ってしまうかどうか心配です。私は幸せになりたいからやってるんではありません。ただ、お墓参りして、お経読んで、瞑想して、線香あげて。私は仏教なんて全然知りません。お経の意味も分かりません。でも、これから勉強したいと思います。信仰宗教であげてるのは簡易なもので独自の解釈がされていて本質ではないと思います。瞑想の檀家のお寺のお坊さんも良い方ですが、わたしが涅槃までいけるかどうかは分かりません。こんな私は社会から見ておかしな人間なのでしょうか?仏教ってなんなんでしょうか?お経読む事でしょうか?墓参りする事でしょうか?瞑想する事でしょうか?私は宗教を理由に仕事休んだ事はありません。信仰宗教勧誘は一度しかやった事がなく、家族からも止められてるので今はやってないです。

有り難し有り難し 42
回答数回答 4

最後の言葉「ありがとう、また会おう」

長文で失礼致します。 急ぎの相談ではありませんので、お時間のある際にお話いただければ幸いです。 もう1点、伺いたいことがあるのですが、お坊さま方もお忙しいと思い、別の機会にさせていただきます。 父親のいなかった私たちを、親代わりになって育ててくれた祖父が先日他界しました。 母や叔父と叔母にとっては、優しくも厳しい一面もある父親だったそうですが、孫全員には優しく頼もしく接してくれて、「いい思い出」しか残っていません。 ここ数年は持病が悪化し、コロナ禍ということもあり、楽しみにしていた大勢で食事を楽しむ機会を設けれなかったことだけは心残りです。 入院先の配慮で、最後にお話をする機会があり、駆けつけた祖母・母と叔父・叔母、孫全員と話をすることができたのが幸いです。 「遅くまでいると迷惑がかかる」と祖父に促され、亡くなる前日の別れの際にかけられた言葉が印象的でした。 「じーちゃんが死んだ後、コロナが収まったらな、ばーちゃんに会いに行ってやってくれ」 最後まで祖母を思う優しさ、そして。 「ありがとう……また、会おう」 この言葉は、もしかすると生きて会えるのは最後とわかっていて、「来世」でまた会おうという意味だと私は受け取りました。 葬儀をお願いした元々ご縁のあるお寺のご住職も、「今の別れは、ゆくゆくは浄土で再会するまでの一時的なもの」とお説法をされていたので、受け取り方は違ってなかったのかなと思うのですが、いかがでしょうか?

有り難し有り難し 14
回答数回答 1

初めて知った事に対して、怖いです

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。 日本では平安時代に貴族の間で始まり[1]、民間では江戸時代に入ってから地域で庚申講(こうしんこう)とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待をする風習がひろまった。 道教では人間に欲望を起こさせたり寿命を縮めさせるところから、仙人となる上で体内から排除すべき存在としてこれを挙げている ウィキペディアからコピーさせていただきました。 こちらの文章を読んだ上でご質問させていただきます。 質問ですが・・、本当に3匹の虫が体の中に入っているのでしょうか? とある小説でこのような事を知りました。 正直、今までこんな事知らなかったので、怖いです。 60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられと wikiに書かれていますが・・・、 寝ないで1日越した方がよいでしょうか?あまりいい気分がしないので教えていただけると嬉しいです・・。 お坊さんの方々もこの日は何か特別な事はやってらっしゃるのでしょうか?

有り難し有り難し 17
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る