人間は子孫を残すために生まれるのか?
そもそも地球上の生命体は、なぜ生まれ、生かされているのでしょうか?
神や霊魂を説かない仏教では、空の思想がありますが、すべてが一体である意識の集合体がいわゆる他宗教で云う処の神 なんでしょうか?
お釈迦さまは無記とされていて、信じる人は信じるで良いという姿勢だと思います。
しかしこれで、苦を抜いても、生かされている意味は分からないし、目指すところの解脱は、単に無になることと誤解されやすいと感じます。
神や霊魂については仏教では賛否両論ありますね。どう思われますか?
現在は、在家の僧侶で自営業です。専業僧侶の皆さんにいろいろと質疑応答したいです。人生そのままが、そのものが、修行だと思っています。
誰にでもあることなんで、敢えて書きません。そもそも、煩悩と自らを護るための自己防衛機能の境界線は、自由と自分勝手の違いにしか過ぎません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悟りよりも涅槃よりも菩提心こそ重要
禅宗僧侶の丹下と申します。
禅業界でも多宗派と同じく仏道の追求に妥協を許さないところがあります。そのような中でもいつの時代においても真に宗師家・正師と言われる方は少ないものです。ですが、いないわけではありませんからその方々の行履(あんり)に学ぶことが大事です。
長年参禅をつづけて仏法の真意を会得、明らかにされたものの、いわゆる何もしない人になってしまった人や、悟るには悟った=仏法の真意・大意は会得されたには会得されたものの、そこで「出来上がって」しまってそれ以上の発展が無くなってしまったというような人も私は何人も見てきました。布教が無い、利他が無い。私が長年疑問に持っていたことと、最近やはりそうだと確信していることがあるのでお話します。参考になればと思います。
道元禅師は仏向上、一箇半箇(大宗師家・大宗教家・大人物)の育成の重要性を説いておられます。無上の菩提を演説する師に出会ったなら容顔や行いや非を嫌うことなく菩提の内容そのものを追求すべきことを説いています。無上の菩提は本人の菩提心がこの上ない心のその答えを明確に示します。この上ない心こそが菩提心であり、この上ない心を追求せんとする求道心こそが最上最高の心を妥協することなく追求するようになるので、その結果、仏法を明らかにされれば心が他に向かうところが無くなって決着がつくということがあるのです。ですが、決着がついても釈尊はそれで終わらなかったわけです。それが衆生済度や人間の在り方を説いて多くの人々を安らぎに導く作用体として布教・敷衍・遊行であられたはずです。自分が悟ればそれでよいという人と、その悟りの素晴らしさ、その安らぎの心を分かち合い多くの人に広めんとする精神があるかないかではせっかくの宝も宝として知られることもなく、せっかくのワクチンも広まる前に人類は煩悩、我欲の炎で自滅することになりましょう。仏法こそは人類一切の煩悩・心の病を寮ずる法薬であるべきです。そうあるべきなのにそのように機能しない・されないのはやはりまだまだ我々の菩提心の程度の低さや仏教に胡坐をかいている、怠けているところがあると言わざるを得ないのでありましょう。私は法を明らかにした・仏法が分かったと言われる人たちは多くおられるでしょうが、だとしたらその功徳を子供から無学な方にも届く形にしてあげることも菩提心・菩提道の実践と言えましょう。
無記の再考
こんにちは。
「人間は子孫を残すために生まれるのか」とは、子孫を残すための生殖活動に関わる生物学的な問いです。
しかし質問文の内容を見るとあまりそう言う生物学的なところを問うようでもなく、他宗教との関連で仏教を考えるという方向性のようにも見えます。
論点が定まらない印象ですが、私は「無記」とは苦悩しつつ生きる上で直接的に関わりのない形而上学的な問い(有るとも、無いともはっきりできない問題)にはあえて答えないという意味だと理解してます。
あなたは、仏教徒として生きていくのに、他宗教の神であるとか、魂であるとかの問いがあなたの仏道、修行において喫緊の課題なのでしょうか。あなたの旨とする教え、修行はそれらの問題解決が不可欠なのでしょうか。
お釈迦様があえて無記という方法をとったことに、再び立ち返って今一度再考したが良いのではと感じました。
丹下さんの回答に全く納得のいかない者です(笑)
伊藤博雲さま
丹下さんの回答に全く納得のいかない者です(笑)
こちらの拙回答(丹下さんのパンチの利いた回答も是非)も参考にして頂ければと存じますが、
https://hasunoha.jp/questions/21637
神とはやや概念が異なりますが、如来の法身の存在はもちろんあり得ますし、霊魂と言ってしまうと少し誤解が生じますが、死後中有においても輪廻を司る微細な意識が身体を生じさせることになる(意成身、意生身)ため、それをそのように言っても良いかもしれませんが、それらは如来の法身も含めて実体的にあるわけではないことに注意は必要となります。(全ては縁起し空である)
もちろん、中有後における身体は、次の生まれの世界の物質や環境等に左右されることになるでしょう。
また、世界は、無でなく、空であり、縁起しているからこそ、迷いから悟り、無明から涅槃も成立するものとなります。もし無や実体の有るものであれば、何らとして成立するものは無いはずなのであります。私たちの色々な迷いや苦しみも。
迷い苦しみがあるということは、当然にその因縁があるということであり、その因縁を明らかになさられ、そして、悟り涅槃への因縁をお説き示されましたのが釈尊となります。
私たちが迷い苦しみの世界に生じる因縁は、もちろん、業の因縁によるところであり、その業次第でまた次、そのまた次と繋がってゆくのであります。
今の境涯が迷い苦しみであり、それを何とかしたいと思うのであれば、業の因縁を仏教によって(別に仏教に限りませんが)より善くしていくことが必要になるのであります。
川口英俊 合掌
有難いこと
拝読させて頂きました。
新しい芽が出て葉っぱを広げてあたたかい光が注ぎ花が咲いていく姿はとても素晴らしいですよね。
子供が生まれ成長していったら嬉しいですよね。それは自分の子供でも他人の子供でもです。
仏様や神様やご先祖様方が私達を見守っていてくれたら嬉しいですよね、いろいろな方々やものごとが私達に恵みを与えてくれて有難いと感じますよね。
私はその様なご縁に恵まれたことをとても有難く尊く嬉しく感じます。
そして仏教に巡り合えたことをとても有難く思います。
有難い(有ることが難しい、なかなかない)ですからね。
仏教は私達の全ての苦しみを取り除きありのままに感じて全てを受け入れていくことと思います。
無なのか有なのか空なのかいろいろ考えることはあるかと思います。それはそれぞれの志や生き方でいいと思います。それぞれのとらえ方や考え方ですからね。
そうした中で「脚下照顧」わが身のほどを自分の足元や身近なことを見つめていくことが一大事ではないかと私は思います。
また宜しければご意見やお考えをお聞かせ下さいね。
宜しければこのhasunohaにてご縁を結んで頂きながら自分の為にそして人々の為にご活躍なさって下さいね。あなたをお待ちしております。そしてあなたを心から応援していますね。
質問者からのお礼
幼少時から少し本当に霊感があって、高校時代に高野山で得度しました。こういう経緯もあって今回の質問をさせて頂いた次第です。
浄土真宗さんでも阿弥陀さまの実在については賛否両論ありますね。心のはたらきの方便なのか、実在していらっしゃるのか?疑問点です。
ありがとうございました🙏南無阿弥陀仏🙏おんあみりたていせいからうん🙏🙇
あずまさん、ありがとうございます🙏やはり深い意味を考えないでとりあえず、今を生きるべきですかね?
丹下さまは曹洞宗ですか、ありがとうございます🙏
曹洞宗さんでも豊川稲荷とか神様を祀っているお寺は沢山ありますが、道元師はこれをどのように捉えられていますか?
私は真言宗で家の宗派は浄土真宗です。
川口さまのリンク先も、参考にさせていただきます。
ありがとうございます🙏
川口さまありがとうございました🙏
リンク先を読んで大笑いです。。。