仏教って矛盾していませんか?
過去にとあるお寺でお坊様に悩みを相談したところ、心無い言葉を言われ深く傷ついた者です。
発言に傷ついたことを伝えると、それは煩悩のせいだぞ、自分が絶対正しいと思っているからそんなことを言うんだ、と責められてしまいました。
それは貴方もですよね?と返せば、僕は凡夫だからね仕方ないよと開き直られ・・・。
仕方なく相談料を払ってお寺を後にしました。
しかし、よく考えたら信仰している時点でその考えが正しいと思っているということですよね。
否定されればお坊様とて反論するでしょう。
それは煩悩とは違うのでしょうか?
自分が正しいという考えと何が違うのでしょうか?
もしも気分を害されたらすみません。
お坊様がどのように考えておられるかとても気になりまして。
いろんなお坊様の意見が聞きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
認めます!
矛盾だらけなんですよ。人間って^_^
悲しくさせて、ごめんなさい。
煩悩です、それ。
悟った人は仏と呼びます。
僧侶は煩悩あるけど、仏を目指してたり、仏にすがったりしてる存在。
僧侶だからといって聖人と見ないでくださいね。
悩みの専門家と思って頂ければ。
正しさは人を切るためにあるのでは絶対ない。
努力目標としてあるのだ。
お釈迦さんも言うてましたよ。
正しさはふりかざした時点で正しくなくなると。
誰もが肝に命じたいことですね。
矛盾しているのは我らです。
多種多様な我らを
正しく(中道へ)導くために
相手によって真反対なことも説かれています。
中央へ寄せるために
右側の人には左へ行くように
左側の人には右へ行くように説きます。
お経だけを見たら
「左へ行け」と「右へ行け」と
真反対のお経が存在することになります。
そのお坊さんに関しては
人を傷つけるような物言いと
傷つけた相手に謝罪しないことに
仏教ウンヌンの前に
人としてどうなのかなぁと思います。
「信仰」と信心は違う
こんにちは。
過去にどちらかに相談されて、残念な思いを抱かれたのですね。
落胆している気持ちがうかがえます。
ただ、そのやり取り自体を聞いていないので、その出来事へのコメントは差し控えます。また、何宗の立場でのご質問か分かりませんが、私は一先ず浄土真宗の立場でコメントします。
良い質問だと思います。
「信仰している時点でその考えが正しい」と「煩悩」で思い込んでいるのではないか、という疑問ですね。つまり、「信仰」は自己中心(煩悩)の思いから信じ込んだものであり、「自分が正しいという」ごく一般的な自己主張と何が違うのだろうかということでしょう。
「信仰」というざっくりとした言い方を一般ではしますが、浄土真宗においては信心といいます。何が違うのかと言うと、
「信仰」→人間が信じることに力を入れて、純粋な努力の結果に掴み取るもの。この場合、その努力が客観的に見るとMade in 煩悩ではないかという疑いの余地が生じえます。
信心→純粋に仏様によって与えられるもの。人間の努力の結果ではないもの。この場合、Made in 仏心なので煩悩の入り込む余地がありません(この信心については非常に厳格な学問があります)。
こういう違いがあります。
信心は、正しさの危うさ、を教えてくれるものです。
どこまでいっても自分の言動には煩悩という自己中心性から発せられているのではないか、そう省みることを促します。正しさ、間違い、善、悪、これを本当に見抜いてくださるお方は阿弥陀様、仏様だけであると受け止めるのが信心です。
そう考えていくと、自分が主張する正しさにはいつも留保がついている、と謙虚に受け止めるべきだと私は思います。
第三者にはわからないあなたとそのお坊さんとのやり取りからくる質問なので、これ以上は突っ込んでお話が出来ませんが、私は以上のような認識でいます。
また、良かったら質問を重ねていって、せっかくの仏縁が良い方向で深まってくれたな、と思います。では、またのご縁で。
追記
ご返信ありがとうございました。
「本当に辛かった」という言葉に、その思いが凝縮されています。
その一方で、「色んな意見が聞けてホッ」としてもらったのは良かったです。
「信心と信仰の違い」も一先ず感じて頂けたようです。
「仏教はまるで哲学」という一面もあります。
また、ご縁ありましたら。
信仰においては、論争すべきではないでしょう。
こんばんは。亀山純史と申します。
あなたとそのお坊さんの間で、どのようなやり取りがあったにせよ、回答した内容があなたを嫌な気持ちにさせたのであれば、そのお坊さんは謝るべきです。このようなことは、イジメに似ていると思っています。回答者が相談者に対して、決して嫌な気持ちにさせようという意思がなくても、現に相談者が嫌な気持ちになったのであれば、回答者は自分の力不足を認め、相手に謝るべきでしょう。(私自身も、不用意な一言で、相手を傷つけていることがあると思っていますので、気をつけていきたいと思っています。)
さて、信仰とは、極めて個人的な事柄です。なぜならば、信仰とはその人の生きるための価値観の土台をなすものだからです。世界に数多くの宗教があるのは、まさに生きるための価値観は、人によって異なることを表しているでしょう。ですから、信仰は決して他人に強要すべきものではあまりせんし、自分と異なる信仰を否定すべきものではあまりせん。なので、信仰ということに関して言えば、自分の信仰と全く異なる価値観とは、論争すべきではないと考えています。(他宗教の信者さんが、私のお寺に布教目的だと思いますが、来られることがあります。そのときは、私自身、丁寧にお断りいたしております。)
煩悩は悩み苦しみの原因です
煩悩は悩み苦しみの原因になります。
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩を制御できれは、悩み苦しみストレスを制御できます。
さらに、悟って煩悩を消せれば悩み苦しみストレスが生じなくなります。
ですが、そう簡単には悟れないのも現実。
そして、プライドの煩悩がある私たちは、自分の煩悩を他人から指摘されたら怒りの煩悩が刺激されて不愉快になりがちです。
仏教は煩悩を破壊しようとしますが、煩悩側(煩悩に操られている私たち)は煩悩を守ろうと抵抗してしまうのです。
お坊さんもそれは頭では理解していますが、やはり煩悩に操られてしまいます。
理想は、自分の煩悩には素早く気づくようにし、他人の煩悩には慈悲の心を忘れないことなのですが。。。
質問者からのお礼
一晩でたくさんのお坊様の回答がいただけて大変有りがたく思います。
そのお坊様とのやり取りは個人情報を含むので詳細はここには書けません。
しかし今でも思い出すと心が苦しく感じます。
何故なら心の逃げ場を全部塞がれるからです。
こちらがどんな思いで言葉を発しても「煩悩だからあなたが悪い、苦しいならそう思わなければよい」という自己責任論で返されてしまう。
とにかくあなたが全て悪いんだからね、みたいな。
これは本当に辛かった。
だからハスノハで質問して、色んな意見が聞けてホッとしました。
信心と信仰の違いも初めて知りました。
仏教はまるで哲学のようなものなのですね。
お坊様たちの回答を噛み砕いて飲み込むのに時間がかかっているので、大したお礼が書けなくてすみません。
また投稿するかもしれませんが、お坊様たちさえ宜しければその時もお願い致します。