娘が自死しました。
中学生の娘が自ら命を絶ちました。
シングルマザーで一人娘でした。
遺書もなく発見が遅れた為
葬儀の後数日で四十九日で仏壇も間に合いませんでした。
自殺は極楽浄土には行けないと言うのは本当ですか?
亡くなった場所にずっと留まるんですか?
生きてる間にとてもイジメに苦しんだのに
更に苦しまなければいけないのですか?
それとも私が前世で極悪人だから子供を奪われてしまったんですか?
死にたい訳じゃありません。
でもどうしても娘に会いたい。
声が聞きたい。
私を1人こちらに置いていってしまったのは
私の事嫌いなのかな?と毎日悩んでいます。
もっと一緒に居たかったし
色々な所に行きたかった。
でも一番は会いたいしもし独りでまだ寂しい想いをしているなら、一緒に居てあげたいのです。
毎日夢じゃ無かった事に絶望しています。
誰か娘の声を聞かせて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「極楽浄土」の要は信心一つ
こんにちは。
まずはお悔やみ申し上げます。
「一人娘」さんを失った悲しみはいかばかりかとお察しします。
「自殺は極楽浄土には行けない」ということはありません。
私は、極楽浄土に往けることの可否は、極楽の主である阿弥陀様の専権事項だと思っています。その阿弥陀様は、南無阿彌陀佛、つまり必ず極楽へ連れゆく、この阿弥陀を拠り所とせよ(拠り所にせよ、が最重要)との仰せです。
拠り所とせよ、と仰るから私は拠り所をさせていただきますという心(ご信心)を頂き、お念仏する人生を歩ませていただく。その先に極楽は必ずある、と聞かせていただいてます。
つまり、極楽への往生は、信心ただ一つが要であってそのほかの要素は重要ではありません。
故人は阿弥陀様に抱かれて極楽へ往ったのか否か。
これは、あなたが南無阿弥陀仏を聞いていく中にしか分かりません。
大変お悲しみのことだから、今すぐその事実の可否を知りたい。
こう思われるかもしれません。
しかし、阿弥陀様が全ての人(ここが大切です)を必ず極楽へつれゆくと仰るお言葉に頷ける人だからこそ、故人も極楽へ往ったのだと頷けます。そうあなた自身が頷けるときにこそ、本当の意味で良かったと安心できるのです。
お坊さんが言っているから、故人は極楽へいったんだろうという捉え方は本当の意味でのあなたの安心につながっていかないと思うのです。それは、あくまで他者の意見であって、自分の意見になっていないからです。
「どうしても娘に会いたい」という思いは切実でしょう。
会うことは出来ます。
極楽から阿弥陀様と共に会いに来てくれます。
極楽へ往かせてもらったよ、お母さんも極楽へ続く道のりのお話を聞いてねという声が聞けます。
手を合わせてお念仏をして下さい。
そして、法話を聞いていって下さい。
あなたは必ず救うという阿弥陀如来さまに必ず救われます。
娘さんも救われたと思えます。
法話を聞いて、ご信心を頂いて下さい。
私のお寺での法話を載せていますで、興味があったら視聴して下さい。
報恩寺チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCOmSlyUJQ3ELGc5Z_tPNQyQ
では、お大事に。
これ以上お母さんにもつらい思いをさせたくなかったのでしょう
かなしいことですね。本当に。少しでもお母さまの悲しい心がおさまることをねがってやみません。
どうして、こんな苦しい事、理不尽なことが起こるのでしょうね。
今からお話することはあなたが心の中、体の中に宿っているお嬢様の声を聴き、これからも共に過ごせるための教え、一緒に歩んでいくための教えです。
お嬢様もあなた自身をも安らかな仏心に導くためにはあなたの心うちにこれからも現れ続ける心象作用としてのお嬢様をあなたの心の中の一番の安らげるところに導いてあげなければいけません。そこを浄土、極楽、大法楼閣、兜率天、仏心、何と呼んでもよいでしょう。その安らかな安穏の心地はあなたの中にちゃんとあります。
そこに到る、そこに導かれゆく、そこに一緒に到るためには、まず、あなたの中のお嬢様に対する複雑な思いや苦しい思いを一度お静めいただき、私がこうしてあげたい、私はこうしてあげたいという「我が心❝わたし❞」を静めること。その後から導いてあげることです。
哀しい、つらい余りにあなたの心の中ではお嬢様よりも私がこうしてあげたいという意識がお強くなっておられるのでしょう。
ああ、本当は何とかしてあげたかった、うちの子をいじめた子供たちが憎い、許せない。それは親としては当然です。自分に正直になってよいのです。その子たちにも本当に反省をさせるべきでしょう。そして、今後次なる被害者が出ないためにも、その子たちが真っ当な人間性になっていくように働きかける機会を設けてもよいでしょう。あなた自身も本当に納得がいく心に自分自身の心を導いてあげるべきでしょう。誰であってもわが子が死んでしまう、先立たれてしまう…、こんな哀しいことは他にありません。だからこそ、その悲しい心を放っておいても救われませんから仏教の説く「菩提心」を発願してわが心も善導し、世のいじめも無くなるように善導し、お嬢様の報われない心をも心の中で善導するのです。お嬢様の霊位を自身の中でこの上なく安らかで尊い心にお送り、お導きしてあげることであなたも苦しみから救われることでしょう。
お嬢さんのお声聞く方法は、あなたがあなたを優先させてしまっていることに目を向けることです。私が何とかしたい、私が苦しいという私を優先している意識に目を向けるのです。
「お母さん、悲しいのはわかるけど、私の心も聴いてほしい。」とお嬢様がいたらきっと言っておられるでしょう。
極楽浄土で成仏されています。
浄土真宗本願寺派の教学伝道研究センターは
原始仏典と大乗仏典にさかのぼり仏典を読み直し
自死に関する数百カ所を分析しました。
その結果
釈尊は自死について価値判断をしていないことが判明しました。
例えば
「雑阿含経」にヴァッカリという弟子の話があり
重い病の苦しみから死を考える彼を
他の弟子たちは献身的に介護し
釈尊はどう仏法を学んでいたかを問うのみでした。
結局ヴァッカリは自死しましたが
釈尊は弟子たちに「亡くなり方」そのものについて非難しませんでした。
でも自死を容認している訳でもなく
釈尊が死を考えている弟子に対応する場面などでは
「生きていてほしい」と強く願っておられました。
お嬢さまは仏様に救われて
お浄土で成仏されています。
私はそう信じています。
でも
あなたは苦しんで
ご自身を責めておられます。
ご自身の中に様々な想いが湧き続けるのは
大切な方を亡くされたのですから自然なことと思います。
そういう想いを話す機会を持ちませんか?
下記の「自死・自殺に向き合う僧侶の会」の
HPをご覧いただけますか。
毎月「自死遺族と僧侶のオンライン茶話会」を開催しています。
また僧侶との往復書簡もやっています。
ご縁の紡ぎ
まままるさま
今世におけるご縁は無くなることなく紡がれてゆくことになります。
来世、来来世でまたそのご縁によって逢えることだって十分にあり得ます。あるいは今世でもあり得ないわけではありません。
また同じ仏縁によっての仏様の導きがあれば、その中で逢えることもあるでしょう。
また、仏縁を結ぶのは何も葬儀だけに限られるものではありませんので、色々な供養の中で結んでいくこと、功徳(追善)の中で結んでいくこと、紡いでいくこともできます。
どうかご供養を通じて二人のご縁を更に強い紡ぎになさって頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
沢山のお言葉・助言ありがとうございます。
未だ悲しみと苦しみは消えませんが極楽浄土に行けない訳じゃないと知り少し安心しました。仏教に詳しい訳ではなく昔浄土真宗の方から自死はどこにも行けずに彷徨い続けると聞き不安になりました。
私は葬儀会場の関係で日蓮宗でしていただきましたが、娘にはお団子沢山持っていってもらおうと思います。桃太郎みたいに沢山味方とお友達が出来る様に願う事にします。
ありがとうございました。