お金にとらわれた心
いつもお世話になっています。
過去の質問で書かせて頂いていますが、私の彼女は大変な病になってしまい、一生普通に働いたり、当たり前の生活を送ることができない状態になってしまいました。
彼女はこれまで貯めたバイト代や親に助けてもらいながら、治療費を支払ったり、生活に必要なものを購入しています。
私も一緒に病院へ行ったときには治療費を出したり、市販の薬やサプリを彼女のかわりに購入したりします。
また、一緒にいる際には、食事代などもほとんど全てだします。
一緒に買い物に行けば、生活に必要な物なども買うようにしています。
彼女はいつも「悪いからいい」 と言いますが、必死に貯めたバイト代を削ることや、これから収入がないことを考えると、あまりにも辛くて私が出しています。 お金がなくなれば心にも余裕がなくなり、ストレスが増えて病が悪化するようにも思います。
しかし、私は時々、「お金をどんどん使うのが嫌だな」
「これまで必死に貯めてきたのに・・・」などと最低な考えをしてしまうことがあります。
私は育ってきた環境から、もともとお金に対する執着が非常に強いです。
また、収入に関しても世間一般でいわれる低所得者で、それほど金銭的に裕福ではありません。
そんなこともあり、余計に上記のような最低な考えを抱いてしまうようにも思います。
このようなことを考える度に、
「自分がくだらないことに使うより、少しでも彼女が助かればいいじゃないか」
「お金なんて所詮、ただの紙でそれ自体に価値はない」
「働くとは、側の人を楽にしてあげること。だから、この使い方は間違っていない」
などと、自分に言い聞かせています。
この汚い心を無くし去り、自分に言い聞かせることなく、快く彼女の為にお金を使える人間になりたいと思うのですが、どうすればいいのでしょうか・・・?
自分が本当に嫌になります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
布施とは「何を求めず!何も期待せず」なのです。
六波羅蜜は六つの仏道を志す修行のことで、その中に「布施」があります。この言葉を聞かれれば直ぐに思い浮かぶのが日ごろお寺様に上げる「お布施」を思われると思いましが、布施には「財施」「法施」「無畏施」の三つがあります。
「財施」が一般に言うお金や食べ物などを差し上げる行為で、「法施」はお経、説法などの仏の教えを伝える事。「無畏施」仏の教えで人の心を軽くしてあげる事。
今の貴方は「財施」の施しに当たります。
お金は煩悩の世界の便利な道具でしかありません。
その道具を人のために使うこれが「財施」だと思います。
どうか気にせず心を込めてできる限りでいいんです施してみることです!
布施とは「何を求めず!何も期待せず」なのです。
何事も「やりすぎ」はいけません
以前の問いと答え、お礼を全て拝読しました。(以前も一度ご問いに回答した事がありますね。今回もよろしくおねがいします)
前の方が書いて下さった通り、他の人に何かして差し上げる事を「布施」といいます。
さてあなたが、その使っているお金は「きれい」でしょうか?お詫びの気持ち、憐れみの気持ち、何か見返りを求める気持ちがあったら、「きれい」ではありません。布施ではありません。
また、相手に「申し訳ない」とか「あとでお礼をしなくてはならない」という気持ちをおこさせては布施にはなりません。
また施す心は大切ですが、自分が困るほど行っては苦しいですよね。
私の年代くらいだと、「彼女の食事代くらい出すのは当然」という気持ちがありますが、今の若者は基本割り勘かな?
それでも、まあ食事代くらいはおごるとして、あとは本人に払わせたらどうですか?あなただって大変だし、相手だって恐縮してしまいます。自分が気持ちよく払える範囲でやりましょう。
質問者からのお礼
山口秀徹様 光禪様
回答ありがとうございます。 また、お礼が遅くなり、申し訳ございません。
布施という考え方があるのですね。 詳しく初めて知りました。
何を求めず。何も期待せずの気持ちや憐みの気持ちは改めて考えると自分の中にあるように感じます。
相手の為 と思い使うことで、自分の気持ちが楽にならないか や いい人 と思われようとなっていたように感じます。 改めて自分の心の汚さを思い知りました。
先日、震災から5年のTV番組で、自身の命を顧みず、ただ人を救いたいという思いから、人々に避難を呼びかけ亡くなられた消防隊をみました。 彼らのように、なんの見返りも求めず人の為に尽くすことのできる素晴らしい人間が亡くなり、私のような醜い人間が生きていることを恥ずかしく感じます。
私もいつの日か、そんな人間になることができるのでしょうか・・・。