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病気を繰り返し、散財したこと。

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どうしても過去に執着。忘れられない。
煩悩を断ち切るには?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去の意味を変えていきましょう

こんにちは。

仏教には、「煩悩を断ち切る」前提の宗派と、「煩悩を断ち切」る能力が人間にはそもそもないという前提の宗派があります。私は後者で、浄土真宗です。先ずは、あなたのご縁の有る宗派がどのような立場なのか、お付き合いのお寺さんに聞くとはっきりするでしょう。

「散財したこと」が、「忘れられない」のなら忘れなくても良いのではないでしょうか。記憶は無理やり消すことはできませんから。ただ、過去の事実が忘れられないのなら、過去の意味を変えていきましょう。高かったけれど、それは勉強代だったのだ、と。今後「散財」しないための勉強だったと考える。

「病気を繰り返し」たことが、「忘れられない」のなら忘れなくても良いのでは。
「病気」をしたからこそ、気付ける人の優しさ、人間の弱さに感慨を深めることが出来たという事はありませんか。

「散財」「病気」という事実を自分がどう見るか。
見方を変えていくことは、「断ち切」らなくても出来ると思います。
それは、今日から、今から出来ることです。

どうぞお大事に。

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有り難し
おきもち

浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布教研究専従職員 元龍谷大学講師 元篤志面接委員(法務省管轄) 真宗学修士、心理学学士 Fmみっきい(地元ラジオ局)出演中 趣味:サックス 2019年末頃から回答しています
応談できる時間帯は、その日によって違いますのでお確かめ下さい。 月曜日〜金曜日(祝日除く)13時〜21時 土曜、日曜、祝日 18時〜21時 お盆(8月1日〜15日)、お彼岸は対応できません。

「わたしが私がワタシが」という無自覚の脳内優先に気づく

今から申し上げることをあなたは正しく受け止められないかもしれません。
つい、自分の頭の中で思う事を優先させてしまい、本当に向き合うべきことに向き合わずに他のことに意識を向けようとしてしまうかもしれません。それではこの話の効果が薄まりますので、数十秒、数分、心を静めて「これは自分の治療のため、向上のため、今後お金もかからずに済むため」にと、真剣に読むことです。効果があるように読めば、損した気持ちも無くなり病院で薬代がかかることもなくなる可能性があります。なぜなら、心と言うものはある時から考え方、処し方が悪くなっただけなのでその前の健全な運転状態に戻ればよいのです。
あなたも含め、多くの人は「自分中心のエゴではないエゴ」が苦しみの原因になっています。
このエゴとは自分の身を守ろうとしたり、二度と苦しみを味わいたくない保身的な心理です。先入観、慣習、つい繰り返してしまう事、習慣的な心理リアクション。常に自分が思うことが最優先で他の視点や他の思考法や他人のより良い助言にも耳を貸さず、自分が自分が、私がワタシがという意識に追われていつも自分ファーストになってしまっているのです。そういう心理の人がお釈迦さまや悟った坊さんの話を聞いてもわかりません。なぜなら自分の思い込み思考優先だからです。
だから、それを無くせばいいのです。
たとえばわかりづらいかもしれませんが、カレンダーに
「悪いことをするな、良いことをせよ。」と書かれていたとします。
この時に自分を中心としている人は標語が他人のことに責任転嫁します。
「ああ、本当だ。あの人は本当に悪いことをやめてもらいたい。いいことをしてくれればいいのに。」と自分のことになりません。優れた人は、言葉を自分を向上させる糧とします。自分を責めたりもしません。人は心が幸せに満たされていると、すべての言葉も自分の為に行われていることに感謝の気持ちが沸くほどなのです。
人生は歯磨きもトイレもお風呂も自分が自分のことをするしかないのに、心の向上はいつも人間は他人まかせ。
世界中の人が「我が心」と言う名の苗を与えられているのですが、人はこの「我が心」という苗を放置して、成長させることや育てること、病気も他人まかせなところがあるものです。
あなたの心を育てる方法は、ずっと選択してきたもののそれがために治らなかった私ファースト意識をまず静めることからです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼のコメント欄があるのを知りませんでした。申し訳ありません。大変に有り難いお言葉を頂戴いたしました。前向きに生きたいと思います。

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