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職場の人間関係

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仕事のことと人間関係で悩んでいます。今の仕事は従業員にランクがあります。4段階で私は下から2番目です。でも周りからはもう1個上のランクにそろそろあがれないとおかしいみたいな目で見られている気がします。私と同時期に入った人は三ヶ月前くらいにランクが上がっています。でも正直私はまだそのランクに上がれるような実力がありません。もうすぐ勤めだして一年が経ちます。周囲からはできるようになるのが遅い思われているようです。でも私もサボったりやる気がないわけではありません。頑張ってこの状態です。特に教育係としてついていた人からミスをするとすごく厳しく言われます。でもぜんぶ自覚はあってできるようになろうと努力していることを「できていない」と責められるのでやる気がどんどんなくなります。今日は自分なりに考えて動いていたら、判断が間違っていると責められました。指示を聞きに行くと自分で考えろと言われるし自分で判断すると間違っていると怒られます。その人と働くのがこわいです。もうやめたいと思うこともありますが、仕事内容は好きなので続けたいです。でもつらい気持ちが大きいです。どういう心構えでいたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

(*´▽`*)人にランクをつけちゃだめよね💗

結論、先に。
人間平等だとか、人権だとか言われるこの時代にランクをつけちゃうというのはいわゆる役職であってもどうなのかなぁと思います。
修行道場にも役職・配役はありますが、それぞれそれぞれがランクではなくてピーマンと人参とジャガイモとパセリとごぼうのようなもので、誰にも取って代われない存在、役職、責務ということです。
お寿司でも海苔とシャリとネタとガリとお茶は別物ですね。
チラシにはチラシのよさ、握りには握りの良さ。
よって、会社が決めた押しつけがましいルールにあなた自身がまずガッツリ染まらなくていいのではないでしょうか。ビジネスでも人間性、モラルを優先しないビジネスはブラックになりますからあなたには向かないのでしょう。
ゆとりがあったら、同じスキルがあればこなせる職種は山ほどありますから、きちんと人の尊厳を重視してくださるところにあなたの役割を発揮させた方がいいと思います。

職場がブラックだと、上司が部下にブラックなあたりになって上司からブラックなあたりを受けた人がさらに下のものにブラックな風当たりになります。
その負の連鎖のルールを決めるのも人間。
だから、そういうルールが最優先という組織では働かないに越したことはありません。
そこは仕事も選ぶべきでしょう。
実はルールとはあなたが外のルールも決めているのです。
ブラックなルールを「採用する」のはあなた。
人の敷いたルールを絶対だと思ってそのルール通りに進むことを選択・チョイス・採用するのもあなた。
人間は本当は自由です。
そんなに自分が苦しめられるようなところに無理して居続けようとするルールを自分に強いて・敷いていませんか?
「それ」は「だれ」がやってますか?
ああ、あたし…、か…!
という気付きを持ちましょう。
人は本当は何をしてもいいのです。
あなたをあなたとして自由独立解放解脱させて自由で安らかで苦しみのない生き方を見出すことこと仕事をすること、学ぶことの最も大切な意義です。
やらなくてもいい奴隷社会に「私がここにいなければ」と思い続けるようなことは不要なのです。一度、そういう自由な視線を持ってみましょう。
誰かの敷いたルールに縛られなければあなたはより良い選択し、第三の道、活路を見出すことができるでしょう。
それがあなたのランクなのです。
仏教は完全独立・自立・シバラレのないランクです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

厄介です

それはとても厄介な方ですね。
関わらないでいられるなら良いのですが、その立場だときついですね。
あなたの成長を願ってやっていることなのであれば、その気持ちだけは受け取り、後は言葉の通り聞くのではなく、その裏の指導者としての思いの部分に思いを向けて、問題にしないことです。

あまりにひどいイジメのようであれば、どなたかに相談するか、距離をおくことしかないですね。
無理せず吐き出せる人がいたら日々愚痴ることができると良いですね。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

ご解答ありがとうございます。
上司に相談することにしました。

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