冥福を使うのは?
以前、法座で冥福の冥は、暗闇の世界だから適切ではないと伺っております。テレビを見ていると泣くなった人に対して、アナウンサーは必ずと言って良いほど「ご冥福をお祈りします」と言っています。その度に違和感を感じてしまいます。
身内を亡くしているので、余計に感じます。
もちろん、言っている人は悪気はないのは承知していますし、間違っていると言う訳でもないのかなと。しかし私は、「お悔やみ申し上げます」を心がけています。
ずっと気掛かりだったので教えて下さい。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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冥土の幸福
カルさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
よろしくお願いします。
以前法座で「冥福の冥は、暗闇の世界」とお聞きになったのですね。
おそらくそれは、浄土真宗のお寺ではないかと思います。他の宗派や一般の方は概ね、人が亡くなった際に「冥福を祈る」と言いますが、浄土真宗ではこの言葉を使いません。
「冥福を祈る」というのは「冥土での幸福を祈る」という意味です。
冥土を辞書でひくと「死者が行く暗黒の世界。あの世。冥界(めいかい)。冥府」や「死者の霊魂の行く世界。あの世。地獄・餓鬼・畜生の三悪道をいう」などと出てきます。
要するに「冥福を祈る」という言葉を厳密に解釈すると、亡くなった方が地下の暗黒の世界に落ちている、ということを前提にしていると捉えられます。でもまあ、一般の方がそうと認識して言っているわけではないので、あまり気にする必要は無いでしょう。
私が口にするのは、カルさんと同じように「お悔やみ申し上げます」や「哀悼の意を表します」などです。
ちなみに浄土真宗では、命を終えて行く世界は「西方極楽浄土」と示されています。「無量光明土」とも呼ばれる光に満ちた世界ですから、「冥土」と正反対ですね。
あの世で幸せ?
カルさま
わたしも、その冥福を祈るの言葉に違和感を感じていました。
よく、葬儀屋さんが使うのです。意味もなくみんなで手を合せて、ご冥福をお祈りいたします。
なんていうのです。
そもそもあの世の幸せってなに?って思い、とある老師に聞いた事があります。
「その言葉にはなんの意味もない。なんとなく耳に心地よく入ってくるから使っている程度の話でしょう。」
とのことでした。
救われるのは死んだ後ではなく生きている今です。仏教は死んだ後に救われる教えではなく、生きている今、救われるものです(^ ^)
わたしの場合は、少し視点が違いましたが、そのように、冥福という言葉に違和感を感じていましたのでコメントいたしました。参考までに。
なるほど
気にしていませんでした 補足します
「望月仏教大辞典」という辞典があるのですが、そこには「冥福」という言葉はありませんでした。
「冥途」という言葉があり、「地獄などの三途幽冥の所を冥途と名付けたり」、とあります。
「三途」というのは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道をいうそうですので、確かにあまり良くないですね。
次に角川書店の「新字源」
「冥」を引きますと
確かに一番最初に「くらい」が出てきますね。
そのほかに、遠い、空(そら)、心の奥底、あの世、目に見えない神仏の作用、なんてのもありました。
「冥福」を引きますと、「死後の幸福」と出ていました。
人が亡くなった後、どのようになるかはわかりません。誰も死んだ世界から帰ってきた人がいないからです。
でも、天なのか地なのかわからない、どこか遠いところで幸せになっているといいなぁ、神仏のご加護があるといいなぁ、と心の奥底で願っています、って感じでみなさん使っていると思います。
一方で、他のお坊さん方が書いて下さっているように、宗派によっては、あまりふさわしくない表現となる場合があるようですので、問いにありますように「お悔やみ申し上げます」を使うのが穏当かもしれませんね。
「ご冥福を...」と言われてもあまり気になさらないように。何しろすでに一般的に使われている言葉ですので。
(それよりも、私は個人的には、弔辞で「天国で...」という言葉を使う方がいて、そちらの方が気になります。「極楽」や「草葉の陰」等の方が仏教らしいと思います)
補足します。
「古事記」に、イザナギノミコトが、死んだイザナミノミコトに会いに行く話があります。そこでは死後の世界「黄泉の国」は地下にあり、真っ暗である、とされています。古代の日本人はそのような感覚を持っていたと想像します。その感覚が今にも残っていて「冥福をお祈りする」という言葉になっているのかもしれませんね。
質問者からのお礼
ご回答 ありがとうございます。
変に真面目なところがあり、気にしすぎていたようです。
なごみ庵の浦上さま 夜中に最速のご回答、感激致しました。
円通寺の邦元さま 圓常寺の聖章さま 同じ違和感を感じていらっしゃる事を知り、嬉しくなりました。
鳳林寺の光禪さま 「新字源」を引いて下さり、恐縮いたしました。
皆様と心が通ったようで穏やかな気持ちになりました。ありがとうございました。