禅の而今について質問させてください
而今とは今を生きることだと認識しています。
しかし、どんな人でも何かを思い出したり、予定を立てたりすると思います。
そして、記憶や予定は、過去や未来そのものだと思います。
刹那に生きることと上記のことが矛盾しているように感じます。
この矛盾はどう解いたら良いのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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難しく考えなくてもよい
仏教は考え方ではないということ。理解する必要もないし、理解しようとすると離れていってしまいます。
確かに言葉で言えば今を生きている。
そして、今から離れたことなど、生まれてから一度もないはずです。だからこそ、わざわざ今を生きようなんてする必要もないのです。
考えたり思い出したりする機能もあります。それは道具です。事実ではないですが、そういった機能をうまく使いながら生活しないと生きていけません。考えたり思い出しているのも「今」の事実。だからわざわざニコンなんて言わなくても良いのです。
事実を大切にして生活する中で、真理を見極め、考えたり思えたりすることで、有意義に自由に生きられるようになるのです。
今できることをできる範囲でやれば合格
たとえば、スケジュールを立てるという作業を今やっているとします。
その作業は今の作業です。
未来を想像するという作業を今やっているのです。
そのときに、「早く洗濯物を干さなきゃ」などと別の作業のこともやろうと考えて焦ったりするなら、「今・ここ」の刹那に集中できていないのです。
たとえば過去を思い出してメモを書く作業も、その作業自体は今の作業です。
メモを書きながら「あぁ、早くご飯食べに行きいのに、面倒だな」とイライラしても、書くべきメモは無くならない。
そんな焦らなくても、着実に粛々と書くべきメモを書いてしまえば早くご飯を食べに行ける。
焦ったからメモを速く書けるわけではない。むしろ「早くご飯に」と想う分タイムロスしてご飯が遠退いている。
今の時間には、どうせできることしかできません。
今できないことは今できないとあきらめて、今できることをできる範囲でやればそれで今は合格だと満足するのが良いでしょうね。
一方で、今やるべきことに集中できずに過去や未来に関する妄想雑念などに思考が飛び散りまくるのは良くはないでしょう。
一段ずつしか昇れない階段。一段ずつでも確実に進んでいるなら合格だと満足すれば良い。意識が先走って百段先を考えてしまうと、今を合格だと思えず不満になりますね。
その場合は結局、百段先の未来に心がとらわれて今を疎かにしていることになります。
過去の事を考えている瞬間も「今」は進行している
こんにちは。
「而今」(じこん)という焼酎がありますが、私たちは「にこん」と読みます。カメラのメーカーにnikonがありますが、仏教とは無関係なようです。ちなみにCanonの社名の由来は観音のようです。「而今」は、「過ぎ去った時」「この瞬間」は二度と戻ってこない、だから今の瞬間を大切に、という意味で使われます。カメラはまさに「而今」を捉えたものなのに、関係ないんですよねぇ..
さて、記憶や予定は、過去や未来「そのもの」でしょうか?
何かを思い出しても、あなたが実際にタイムマシーン的に過去にもどって(又は未来に行って)、そこで何かをしている訳じゃないですよね。「今ここの私が」「過去を思い出している」「未来の計画をしている」にすぎず、過去や未来「そのもの」じゃないよね。頭の中でやってるだけですよね。過去の事を思いだしている瞬間も、過去には戻っておらず今は進行しているのです。
過去の事を思い出すのなら、全力で「過去の事を思い出す今ここ自分」を全うするのです。ご飯の時はご飯に集中、ゲームの時はゲームに集中、思い出すときは思い出すことに集中、計画を立てるときは計画に集中、そういう事だと思います。
尚、今「過去の事を考えるときはそれに集中」と書きましたが、過去や未来にとらわれすぎると、今がおろそかになります。
例えば私が書道をしているので書道にたとえて話をしますが、書道では、完成形の事や書いた途中で失敗した部分をいかにバランス良く仕上げるかをなどを考えながら書くわけです。でも完成形の事を考えすぎたり、書いちゃった部分の失敗の事を考えすぎていたりしたら、うまくかけません。完成形や失敗も頭に入れながら、今書いているこの一画一画に集中する事なのです。これは私たちが生きていく上でも同じでまた大切な事だと思います。過去の経験未来の計画を踏まえ、今に集中していくこと、それが大切な事なのだと思います。
2つ、別のものと思ったら?
仏教では智慧と慈悲の両輪と言いますが、智慧は、一瞬ごとの今を捉えて無常、苦、無我をありありと悟ること。慈悲は、すべての生命の幸福を願うこと。でも、すべての生命とか考えているときは、一瞬ごとの生滅の連続を見ていませんね。
しいて言えば、智慧が物理学、慈悲が生物学、くらいの方向性の違いが見えます。
優劣ではありません。仏教では本当に両輪と言っていて、目指すものは智慧・悟り・今だけの発見です。しかし、それを目指す「私」という生命がいろいろなものに支えられて慈悲をかけられていることを理解していないと、「私」という生命が悟りに至りません。また、智慧が開いて悟った後は、煩悩がないので、わざわざ頑張らなくても普通に何をやっても、やっていることがそのまま他の生命のためになります。
悟るための修行は、環境や予定を整えて、座禅に参加して頑張る。周りの生命や環境のおかげで、物理学の実験を始められます。
日常の生活では、いろいろな生命との関わりの中で、助けられ、自分も助ける。生物学というよりは植物を育てるような「私」という生命の仕事にも、まずは「今ここ」に落ち着いていないと。そのうえで、将来の予定や過去に積み重ねた学びや経験を駆使して「今ここ」で生きていると思います。
ちなみに業も、「今ここ」でまさに受けながら新たに作っていますが、その業は、ずっと積み重なってきたものです。
質問者からのお礼
光禪さん
仰るとおり記憶や予定は今起こってることですね。気付かされました。
ありがとうございました。
藤本晃(慈照)さん
慈悲はあまり意識していませんでした。
確かに勤しめるのも身の周りのすべてのおかげですね。
ありがとうございました。
願誉浄史さん
今しか生きてないなら、今できることだけに集中するように努めたいと思います。
一段ずつがんばります。
ありがとうございました。
邦元さん
皆全て今にしか生きてないことは、目からウロコでした。
而今にこだわらず、よりシンプルに今を丁寧に過ごしたいと思います。
ありがとうございました。