「モノ対象」の、思い通りにいかない怒り
お世話になっております。
普段からhasunohaで様々な問答を拝読しておりますが、私がその問答検索でよく用いるワードは「怒り・いらだち・イライラ」です。
人間関係で苦労されている方がほとんどですが、今回は「モノ」相手のお話ということで、お知恵を拝借できれば幸いです。
何かが引っかかる、倒れる、落ちるといった、不本意かつ都合の悪い、想定外の現象が昔から大嫌いです。
器に水を注ぎ入れる
→きちんと器が受け止めてくれることを期待する
→ところが気がつけば卓は水浸し
→どうやら器のどこかにひびが入っているようだ
ここまでが事実であり、これ以上自分で余計な感情の修飾をしない、「妄想」しないことが最善だと学びました。
そう頭では理解したつもりでも、怒りに火が付いてしまいます。
その火の付き方は、
「○たばれよ」「ぶっ○すぞ」「お願いだから○んでくれ」
これらの言葉を、心の内で自動的に吐き捨てます。
こういった毒を含んだ言葉で脳を瞬間的に麻痺させないといけないくらい、毎度毎度日常のことでショックを受ける臆病な心です(せめて口には出さないよう留意しています)。
先述の言葉を意訳すると、
なんで俺の邪魔をする!
余計な仕事増やしやがって、この役立たず!
水すら保てないなんて、ただのゴミだ!
無生物の分際でイライラさせやがって!
何事も思い通りにならないのが常。
思い通りにさせようというのが、人の、私の煩悩です。
それでも、他人が思い通りにならない現実と折り合いをつけるのに日々精一杯で、「モノ」相手にまで余裕が持てていません。
こういった時は呼吸を数えるなど、身体感覚に意識をすり替えるのがいいのですよね。
ただ日々の仕事の流れであったり、台所で何かやりながらだとなかなか手を止めることが難しく、実践できていません。
これでも昔に比すれば八つ当たりしなくなっただけ、成長した方なのです。
それでもまだ、無駄に反応するばかりの心を持て余しています。
いい年齢の大人のはずが、心はいつもささくれだち、不安定に波打ち、せめてもとそれを周囲に悟られぬよう努める日々の中、他ならぬ自分自身が苦しい思いを抱えています。
誰も幸せにならない悪癖は卒業し、ゆったりリラックスして生きていきたいです。
人知れず短気で傷つきやすく 悲観的だった自分が変わりつつあるのは、 仏教との出会いがあったから
甘えたい/頼りたい/与えられたい/他者から奪いたい/慰められたい/赤子のように振る舞いたい欲求たち ↕︎ それを恥として許さない理性
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
事実をちゃんと見る=思考や見解が伴わないビジョン
それは外の「もの」ではなくて内なる「ひと(人我)」の働きです。
事実を思考の装飾なしに見るということは、脳内司会者ゼロ、ツッコミなし、コメントなし。わたくし(人我)が立たない心です。坐禅・禅定によって非思量を会得しない限り明らかにならないビジョンです。
極めればもともとが我が立ち上がる前の景色が得られます。想念が速い即時に割り込み思考が入るのです。
農家の方にこんな話を聞いたことがあります。
👴「オラたちは畑や自然を相手にしているからヨ、天気や自然のことには腹は立たねぇんヨ。ところがヨ、相手が人間だとやっぱり腹が立つ。せっかく作った野菜をヨ、店が値切って安く仕入る。こっちは買ってもらえねぇと仕事になんねぇ。だからそういう意地悪をされるとどうしても腹が立っちまうのヨ。」
('Д')なるほどなァ。自然界相手であれば腹は立たないのか、と思いました。
ところが、私は庭の掃除で「冗談じゃない!もううんざりだ!」と自然界を相手に腹が立ったことがありました。境内に木がモッサモサ。毎日ホウキ🧹一本で片付くレベルじゃありません。毎日エンドレス庭はき…、こんなこと何になるのか。「…(# ゚Д゚)同級生のM君は歯医者で毎月80万も稼いでいるのに俺は一日に一円にもならない庭はき地獄…一体何をやっているんだ!」
その後、私がプロ仕様のハイパワーブロワー「ゼノア」を購入し境内をバイクでブロワー片手に風情のない庭掃きを始め2時間かけてはいていた庭掃除が10分かからず終えるようになり近隣住民から風情のない坊さんだと後ろ指をさされるようになるに至ったことは言うまでもありません。そろそろ珍百景登録されてもいいころなのですがテレ東から中々依頼が来ません。
モノに腹を立てるというのは、逆に言えばモノを見る際「こちらの我」が立っているということでしょう。最初からわたくしマインド越し、自分の身勝手な我見越しにモノを見ているから非思量、無問題にならないのです。「はじめにことば(思考)ありき」ではなく「はじめに事実ありき」ということを理屈無しでちゃんと会得する必要があります。オリンピックを見れば選手を見た瞬間はそれが何人だかもわからんでしょう。
「○たばれよ」「ぶっ○すぞ」「お願いだから○んでくれ」は
「これも学び」「互いに向上しよう」「これも成仏に導く良い功徳♡」と自分を成長に導くワードに変換しましょう。
痛てーーー!
先日ドアの角に右足の小指をぶつけました。痛かったですものすごく。でも怒りはしません。痛いだけですもん。
禅では自他を作りません。自分が無ければ他人もない。ただ目の前にその現象が起きているということがあるだけです。
あなたの頭の中は自動的に認識機能が働く癖がついているのでしょう。物を見たときには認識するまでに0.6秒かかるそうです。
事実は茶碗があるという事だけ。そこに目を向ける事です。思いは作り事ですから握るようもない。事実こそ目を向けたいところです。
物事との出会い頭。
その瞬間です。
自他がなければ認めることもない。イライラしにくくなると思いますよ。すぐ忘れますし。
必ず認識が差し挟まる様子もないはずです。好き嫌い、損得、怒り、そんなものが起きる前の様子があなたの目や耳、舌、身体にあるはずです。
よくよく坐禅して眺めてみてください。そしてわかったら眺めることもなくし、とことん座ってみてください。
自分の心を陶冶する
半跏趺坐さま
「怒り・いらだち・イライラ」は、自分の思い通りにならないということに対して起こってしまう事象であります。
しかし、この世は自分の思い通りには全くならないもの。。
思い通りにしたいと思えば思うほどに「怒り・いらだち・イライラ」は増えていくばかり。
そんな思い通りにならない世界を相手にしてもしんどく苦しいことになります。
仏教では、そんなどうにもならないものを相手にするのではなく、どうにかなる方に目を向けて対処していくことを勧めるものとなります。
シャーンティデーヴァ大師は、その著書である「入菩薩行論」の中において下記のように述べられておられます。
入菩薩行論・第5章・13偈
ས་སྟེང་འདི་དག་ཀོས་གཡོགས་སུ། །དེ་སྙེད་ཀོ་བས་ག་ལ་ལང་། །ལྷམ་མཐིལ་ཙམ་གྱི་ཀོ་བས་ནི། །ས་སྟེང་ཐམས་ཅད་གཡོགས་དང་འདྲ། །
「この大地を皮で覆うとしたら、どうしてそのような皮が足りるだろうか。[しかし、]靴底のみに皮を貼れば、すべての大地が[皮で]覆われているのも同然だ。」
拙解説・・「この世の全てを自分の思い通りにすることなど、とてもできるものではないが、自分の心一つをしっかりと治めてあげることさえできれば、別にこの世の全てを自分の思い通りにできなくても、平穏無事に過ごせられるものとなる(この世の全てを自分の思い通りにできるのと同じ効果がある)のである。」
自分の心を陶冶することで、世界の捉え方、誰かに対する捉え方を変えることはでき、そして、それにより何事においても適切に対応することができるようになるということであります。
どの世界、どの立場であろうが、それを認識する自分の心の問題次第になってくるということです。
このことは唯識思想における過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノ・コトを捉える習性)が、モノ・コトを捉えているという複雑な構造について学ぶと、よく分かるようになります。
心を清らかにしていく仏の教えを実践して、心に靴を履かせて参りたいものであります。
仏教を学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
邦元先生
こちらのご回答、合わせて呟きの方のご返信、ありがとうございます。
小指の件、お見舞い申し上げます。本当に痛いですよね。
「自他を作らない」、初めて聞いたお話で驚いております。
また、般若心経の「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」に近いこともお話ししてくださっているのでは、とも考えております。
ご回答を読んで以降、「物事との出会い頭、その瞬間」に意識を集中させています。すぐに何かが変わる訳ではないものの、新しい入り口がそこにあるような予感がしております。
学びのきっかけをありがとうございました。
川口先生
ご回答ありがとうございます。
シャーンティデーヴァ大師のお言葉、目指すビジョンを非常にわかりやすく現してくださっていますね。
過去世からの習気、これまでの私個人の経験だけでなく、もっと深く染み付いている人の業とでも申せばよいのでしょうか。そういった諸々を含めて、自分の心の陶冶が必要とのお話だと理解いたしました。
とても深いお話をありがとうございました。
丹下先生
ご回答ありがとうございます。
ゼノアのブロワー、どの商品ラインナップを入手なさったのか気になってしまいました。
袈裟もしくは作務衣をお召しになってバイクに跨り空気砲を構える和尚は、某ハリウッド映画に全く引けを取らないビジュアルですね。
ものを見るときに「我」が立つ、まさに今その状態です。
農家の方のお話を読みまして、身の回りの道具にとって自分は「支配者」なのだから、その道具たちは我の望む通りの働きをするべきだという思い込みがあることに気が付きました。
非思量に至ったその景色を目指すべく、改めて坐禅の習慣を再開する決心をいたしました。
合わせて、教えていただいた変換ワードを戒めとして励んで参ります。
慧眼とユーモアのあるお言葉、ありがとうございました。