死にたい気持ちが辛い
何度も自殺未遂をしています。
今回も罪悪感に苛まれながら2日間仕事を休み、この2日のうちに死のうと決意しました。
だけど結果、怖くてまた死ねませんでした。アルコールを大量に摂取して恐怖心を和らげたはずなのに、首を吊り、意識が遠のく寸前で死ぬのが怖くなり止めてしまうのです。情けないです。
死にたい理由はいくつかありますが、1番の理由は自分のことが大嫌いだからです。
自分以外の誰かに生まれ変わりたい、と強く思っています。
自分の容姿、このネガティブな考え方何もかもが嫌なのです。容姿は整形で変えましたが、好きになれませんでした。性格も昔より前向きになったつもりでしたが、ダメなままでした。もうこんな自分で生きていたくないのです。
こんなこと親にも相談できません。出来れば相談して寄り添ってほしいです。でも 死にたい なんて言ったら親に迷惑がかかると思って言えません。親は優しいので、死にたいなんて言ったら無理してでも駆け付けてくると思います。でも優しいからこそ、親に無理させたくないのです。
どうしたら気持ちが落ち着きますか。もう分からないです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
欲は欲をつくり、果てることがない
拝読させていただきました。
まず仏教では「無我」と説きます。
人々は自分自身は自分のものと思っていることが多いのが普通なんですが、自分というものもないのです。
哀愁さん限らず、人々は自身に執着しているのです。
自分はこうである。自分はこうでありたい。など
まったく違う観点から哀愁さん自身を見つめていく良い時期かも知れません。
私たちは先祖から繋がる命があり、その命をバトンし続けていることは理解できると思います。
望んで生まれてくることは難しいのです。
生まれる時代、環境、家族構成、顔も体もすべて含め、自ら選んで生まれてくることはできないのです。
小欲知足を根底に抱いていく習慣をもつことが今から必要です。
今、お若いご年齢ですが、歳を重ねるにつれ容姿は自然と変化していくものです。
こうでありたいと思う気持ちは誰しもが抱くものですが、求めるものは手に入らないのが世の常なのです。仏教でいう「求不得苦」なのです。
他人を見る知覚・認識により、自分という鏡を照らし合わしてしまうことで、苦しみは生じます。
何よりも心が大切であり、異性も含め人は継続する上で、心で判断していきます。それはこれから歳を重ねるにつれ多くの人々と交流を重ねることで深く感じていくものです。
他人の評価を得ようとしているときは、自分に迷いを取り込んでいるようなものなのでもあります。
イメージされる僧侶の基本スタイルはいつと黒の衣服に、丸坊主といったことが普通に感じると思います。
それは誰から見ても見受ける僧侶でない限りは、同じにみえるものです。
弘法大師のお言葉に
「頭を剃って欲を剃らず、衣を染めて心そめず」
とあります。
大切なのは外面にとらわれるのではなく、内面を見ていこうということです。
今、艱難辛苦である心中であることとお察しいたします。他からの見られ方や、自分自身はこうでありたいと思う気持ちよりも、内面を磨いていくことで自然と外面に輝きがでてきます。芸能人でもそうです。二枚目だから売れる訳でもなく、魅力があるから、その「気」に「人」は集まるのが人気です。歌が上手いからとて売れる訳ではなく、声質に魅力があるからです。細かいことは省略しますが。
今からでも全然遅くないことを断言しますので、今からでも遅くないということを自覚と自信をもう一度もってください。
合掌
自己意識を忘ずれば自分の都合意識から救われる
この話は坐禅して無心とか無我になれという話ではありません。
仏教というジャンルの話にしてもいけません。
仏教・仏道とはそもそもが人間の仕組み・根本の道理のはなしです。
仏教とか難しい教えを思って聞かないことが大事です。
人間がなぜ容姿にやたらとこだわったり、勝ち負け、優劣、損得に振り回されるのか。
それはこの自己に自己意識というニセの主人公意識がたちあがっているのです。ある種の乗っ取られ。背乗り。
その自己意識がなぜニセといえるのか。
それは自分を愛せない、自分をDISる、自分を面白くないと思ったりするでしょう。
絶対に実現不可能な無茶な要求を自分に強いる。
あたかも愛していると言いながら金を巻き上げるホストのごとし。
そのニセの意識に支配され、ニセの意識を主人公にしている限りあなたは今後も死にたい気持ちが晴れないことでしょう。嘘の美しさを求めさせるんだもん。(._.)
人間には幸せ、おだやか、安らかになるための法則がある。
あるのにそれをしない。
あたかも皮脂を洗い流してしまうボディーソープを使わせ保湿美容液依存にさせる企業の策略にハマり抜け出せず気づきもしない女子のごとし。
私もかつてこの自分を自分だ自分だと思っていた意識が強くありました。
死にたい死にたいと思うのですよね、不思議と。
何となく心の奥底でへんな勝ち負け意識や優劣意識や失い、損ない、失敗、否定的、悲観的、批判的な意識がぬぐえない。
自分で自分をぼこぼこにしているのですから、救いようがない。まさに泥を拭わんとして泥水で自分を洗うがごとし。
一度、そこから抜け出したいと思うのであれば、死にたいぐらいの覚悟はあるんでしょうから、完全にそのアタシ意識、自分意識だけを死なせてみようと思ってみたらどうでしょうか。
いたずらに自分を精神的に追い込むことをやっても意味はありません。
それよりもこの自分意識を一度打ち捨ててみようと坐禅を志すことです。
坐禅は師匠、指導者が大事です。曹洞宗でしたら有名人坐禅僧よりも井上貫道老師がお勧めです。
私も井上老師の動画をUPしてありますので、ご覧いただければ幸いです。
坐禅は坐禅をするのではなく、人間本来の究極の心地よいところさがしと思ってやてみてください。固く考えないこと。厳しい修行でもありません。続く限りでも構いません。自分でなにかやる意識を完全に休めてみましょう。