死因による魂の行先
大好きな父を病気で亡くしました。
若いうちに私を産んだのに、きちんと育ててくれて成人させてもらえました。
私はパパが大好きで、ファザコンと言われる程仲良しです。父に限らず家族が大好きでしたが、父が1番の味方でした。私はインドアで1人が好きで、友達ですらも人と過ごすのが苦手で。
なので休みの日はいつも父と一緒でした。いつも私のワガママに付き合ってくれました。
急性と名のつく病気だったためありがとうもごめんねも言えず、どのくらい痛いのかどのくらい苦しいのか、何か伝えたいことがあったのかどうか、父の言葉も何も聞けず。
私はいつか絶対に父に会いたいのです。父と母からもらったこの身体と命を自分の手で無駄にしない為には、死後の世界に縋るしか生きる希望がないのです。
本題ですが、
自死をした場合は、天寿を全うした人達と同じ世界には行けない、即地獄行き、自死は罪なのでカルマがどうのこうの、沢山調べました。
これらは本当なのか、少しでも自死をする人を躊躇させるため減らすために適当に作られたものなのか。
そもそも死因によって魂の行先は変わるのか。
仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか。
知りたいです。
もちろん死後の世界のことは誰にも分かりませんから、私が見漁ったWebサイトよりも信用出来るお坊さんの考え方が知りたいだけです。
別に死ぬつもりも度胸もないので私を止めるための綺麗事は必要ありません。死について調べてる間に見飽きました。
自死でもお父さんに会えるよ!という返答が来たからと言ってじゃあ自死します!ともなりませんので、変に気遣わずそのまま元々のお考えを教えていただければ嬉しいです。
お忙しいところ恐れ入りますが、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
追善供養
ようさま
お父様のこと、お悔やみ申し上げます。そして、喪失感をお抱えであることもお察し申し上げます。誠におつらいことでございます。
自死、自殺につきましては、それだけでイコール「悪いこと」、「悪業」となるわけではありません。
問題は、その動機(心の状態)と行為が総合的にどうであるかが問われてくるところとなります。
ただ、自殺の場合は、煩悩によることがほとんどであり、煩悩による行為は悪業となってしまうため、お勧めできるものではないというところではあります。
もちろん、動機が煩悩や無知・無明によらず、清らかな動機にてとなれば、中性の業、あるいは善業になることもありえます。
ですから、繰り返しとなりますが、自死、自殺が一概にイーコル「悪いこと」というわけではありません。
死後の詳しい様子をお知りになられたいとなられましたら、下記の書物が参考となります。
チベットの生と死の書 (講談社+α文庫)
ゲルク派版 チベット死者の書 (学研M文庫)
秘密集会タントラ概論(法藏館)
特に、「ゲルク派版 チベット死者の書」は、ヤンチェンガロ大師の「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」の訳書で、「死、中有、再生」の過程について詳しく学ぶことができます。
さて、お父様とまた会えるかどうかということですが、縁次第においてはありえるところとなります。問題はその「縁」となりますが、過去世、生前における強い結びつきの縁、仏様を介した縁、供養や功徳による縁など色々とありえます。
一番は仏様とのご縁と功徳の力によりて、共に仏様の下の浄土に生じるというところになりますでしょうか。
そのためにも共に善き業、善き仏縁があることが必要となります。
お父様へはできる限りの追善供養によりて、自分は今世においてできる限り功徳を積むことによりて、よりその可能性は高まると言えるでしょう。
川口英俊 合掌
二つの死後の世界観 Aご本人 B亡き人の縁者のその後の人生
あなたを主体として考えてみましょう。
あなたにとってのお父さんの死。それは死の因ではなく今後のあなたの生の因。
お父さんの死因が何であったとしても、お父さんの死は「お父さん本人の死」。
そして、その死因が病、事故、仮に自死であったとしても、その死を目の当たりにして今後の人生に影響が及ぶのはあなた自身。生因。
自死によって地獄に落ちるという「表現」がこの世の中にはあるようです。それは人類の歴史・経験によって、自ら死を選んだその人と関わりのある「周りの人たち」が。故人の最期が自死によることで、その後の人生が生き地獄のような暗い人生を送るようになってしまう人が「多い・多かった」のでしょう。人は自ら命を絶てば本人の人生の最期としても「哀しい死」です。周りの人たちにとっても、その人の最期に何かをしてあげることもできない「哀しい死」でしょう。
さらにはその後も遺族は救われない気持ちが続く=まさに生き地獄。これは現実の事実としての暗い人生、遺族の悲しみの現実です。
死後の世界とは、
A我々の思い描く死後の世界
だけではなく
Bその人と縁のある私たちが歩むその人の死後の世界=「生」=この世。
あなたと縁の深い人の亡き後も続いているこの世こそ「(亡き人の)死後の世界」というべきものでしょう。理知的な仏教は「そこ」を言っている。
前世とは一秒前。来世とは一秒後。誰も過去は変えられず、未来は誰もわからない。
一般世間で知られている俗世の「死後観」は故人を主体として焦点を当てている。
多くの人は、現実の世界としての死後の世界を見ていない。あなたがお父さんが死んで悲しいというのはまさに後者のBの問題ではないでしょうか。今あなたが哀しいですから。死因によって、魂の行き先が変わるというのは「あなたの今の魂」がということなのです。
だから、あなたのその魂、精神の導き先・向かわせる先を、あなたが愛するお父さんとの今後の❝共歩き❞とするために供養・孝養の心=菩提心を捧げることで、あなたは今後も生きながらにお父さんに会えるのです。あなたにはDNAレベルでも絶対に消せない作用体としてお父さんが刻まれていて離れようがありません。
死んでから会おうと死後の世界に縋らんでもいいのです。
生きて、共に歩んで恩に報いる報恩謝徳の精神こそ「会う・逢う・遭う」こと。菩提を弔うとは、この上ない最高の心を求める菩提心です。
信仰とセットでなければ分からないこと
こんにちは。
「綺麗事は必要ありません」「気遣わずそのまま元々のお考えを教えて」と書いているので、遠慮なく書きます。
「死後の世界」については、あなたが「見漁ったWebサイト」ほどのバリエーションはないでしょうが、宗派それぞれの見方があります。つまり、ここでそれぞの立場の回答僧を回答を見て、これまでと同様の情報収集はできるでしょう。
ただ、情報を情報として集めることは大切ですが、肝心なところはその宗派の教えに生きる、信仰するという踏み込みです。
特に、あなたの問うている核心部分は、その教えに生きるものでなければ心底わかることはできないことばかりです。
「自死をした場合」「即地獄行き」か。
親鸞聖人は、地獄は定まった私の住処である、と言われています。だから、「自死」が「地獄行き」の分かれ目ではなくて、人間の日々の行いの積み重ね(業)の行きつくところはそもそもが「地獄行き」です。
ただ、ここで肝心なのはそこにその人間を憐れんで極楽へと救い上げる仏様がいる、という信仰をセットに聖人はお考えである、ということです。つまり、オカルト的に「カルマがどうのこうの」だけを考えるのは仏教ではありません。
「仮に私が自死をしたら、病死した父には会えないのか会えるのか」。
これも信仰とセットでなければ分からないことです。
人間は、自分で死後を考えたり情報収集して取捨選択している内は、結局「死後の世界のことは誰にも分か」らないという壁を破ることができません。ましてや、安らかな「死後の世界」が自分に安堵されているのか、会えるの会えないのかが分かりません。つまり、情報という知識の蓄積は、安心とイコールにはならないということです。
究極のところ、自分がではなく、仏様が仰っているからその通りなのだという信仰がなければ、自分の心の中に微かに潜み続ける「死後の世界のことは誰にも分か」らない」という疑念から解放されないのです。
私は、極楽浄土があり、そこに連れて行って下さる仏様がいてくださり、また近しいものと再び会えるというお経の内容を聞くご縁をいただいて、その世界に安住できています
あなたもご縁あれば(字数制限)
築地本願寺 インターネットで3分法話
https://tsukijihongwanji.jp/lecture/three-minutes-internet/
死因ではなく業が死後も決める
私たちはみんな、いつも、心で、言葉で、あるいは体で、善いこと、悪いこと、善くも悪くもないことをして、それらの結果を受けながら、また新たに何かをしながら、生き続けています。
何かをした結果が業だよ、と言われても、どれがどの結果か分かりません。ただ、生きたいとか苦しみたくないなどという本能的な原動力がいつもあります。そのおかげで何かをし続け(呼吸さえ、やめることはできません。苦しくてイヤなので)、生き続けているので、その原動力が過去からの業の表れだと見ることもできます。
死因って、一つの死にも本当はいっぱいありますよ。どれか一つではありません。自殺が死因?いえいえ、首を吊って骨が折れたり呼吸ができなくなることが、あるいは血が流れ過ぎて出血多量が、死因です。そんなものは表面上の区別です。実際には、いろんな因と縁が同時に毎瞬間ごとに自分に降りかかり、でも自分の行動は、いつも一瞬ごとに一つずつだけ(でも手早くいろいろやっているように見えますが)。でも何かし続けないと死ぬので必死に何かしています(呼吸さえも、死にたくなくて必死でやっています)。
そういう原始的な本能的な業と、もう少し余裕をもって、善行為(善業)をしたり悪行為(悪業)をしたり、それらの結果を受けながら、誰でも、生き続けています。
この体が使えなくなると、諦めて、慌てて、この体から逃げ出して(死んで)、どこかで別の体を作ります、心が。これが輪廻転生です。次に何になるかは、心の続きですから、本人も周りの人も、具体的にどこで何に生まれ変わるかはわからなくても、「だいたいあのくらいだろう」と分かります。心根が悪ければ餓鬼、畜生、地獄へ、心根が良ければ天界か人間に。死ぬときの苦しみや死に方は関係ありません。痛み方が違うくらいです。
お父様がどこに行ったか分かりませんが、あなたが死んだとき、同じような業、同じような心根だったら、同じようなところに行くことは大いにあり得ます。天界とか餓鬼道なら、直前の一生涯の記憶だけは残るようですので、お互いに分かるでしょう。
そういう不思議な世界観を、釈尊はいとも簡単に語っています。興味があれば、
スマナサーラ長老『死後はどうなるの?』角川文庫、
藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会
などもご参照ください。