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助けようとした命を傷つけてしまいました

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はじめまして。ののと申します。

最近昆虫やカエルなどを面白半分でいじめ殺してしまった子供時代の反省と仏教の教えに感銘を受けた事から出来るかぎり命を大切にしようとしています。家に入った虫さえも潰さずに追い出しています。

しかしこの前歩道を横切っていた芋虫を逃がそうとして投げた時誤って草むらにあった鉄パイプに強くぶつけて怪我をさせてしまい深く後悔しました。そして今日は蛾を歩道から移そうとしてうまく捕まえられず蛾が車道に飛んでいってしまいそのまま車に潰される瞬間を目撃する羽目になってしまいました…。

助けようとした命を二度も自分の不注意で傷つけてしまった後悔で悲しい気分になっています。この辛い気持ちとどう向き合うべきでしょうか?またどのように傷つけた命に懺悔と供養をすればいいのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

命を大事にするあなたのその「意識」の高まりこそが人類を救う

某国では人間の命すら軽視しています。
その事実を私はSNSで拡散していますが、削除されたり、アカウント停止された利を繰り返しています。
放置すれば、命の軽視が継続されその近辺に住んでいる人たちの人間性は「人の命ですら軽視するような非道な人間性が継続」されます。
だからこそ、世界全体で人命軽視や民族虐殺が行われなくなるように教育や人道主義、世間でまかり通っているいい加減な人権(利権活動としての人権)ではなく、本当の人権が広まっていく必要があります。
そして、その命の尊厳を守る精神は人間だけではなく、あなたのように動物や昆虫にも配慮やいたわり、慈しみのこころがめぐらされるようになるべきであると私も個人的には思っております。
とは言いましても、すべての命を保護することはできません。
人は他の生命を食することがなければ生きていけません。
コロナもウィルスですから(一説には人工的に作られた細菌兵器とも)、殺菌・除菌しなければ我が身を守れません。
形の大きな生命に対して人は命の尊厳を感じるものです。
ですが、象牙のハンターや動物の毛皮を狙う人たちは平気で動物を撃ち殺します。
人は地面にアスファルトを敷きます。土中の生命は軽視されたことになります。
人は花は好みますが、雑草は「雑草」扱いです。放置すれば文句を言う人もいます。草を刈れば生命の軽視でしょうか?野菜ならば頂戴すればわが身の命となりましょうが、ウルシなどはカブレます。歩いているだけでアリやミクロの生命体を踏んでしまうこともあるでしょう。雑菌を放置すればあなたの健康が損なわれます。
毛沢東がスズメを害鳥扱いした結果、イナゴが大量発生。森林伐採でカラスも野鳥、タヌキも住むところがなくゴミをあさる。
多くの命たちが共存、共生しているのがこの世界です。
一方で虫よりも大きな生命である犬猫が毎日のように殺処分されている。
この問題はこの記事をご覧になられたすべての人に捧げる「公案」です。
われわれは動植物を「虫けら同然に」扱ってよいのか。
扱うものは何者か?
扱う心はいかなる救いをもたらせる人間性か?
生活とは生きると記し、活かすと記す。
家の木、柱一本でも、雑に扱えば殺害。
善導すれば活性、生活、活道となる。
24時間すれ違う、生命、事象、心理。
一切を救済・済度せんと発願するのが人間が奮い起こすべき大誓願「菩提心」なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

殺生は故意、過失は……

行為は言葉や体で表現する前に心で意図します。その意図が、業になります。
 布でくるまれて眠っていた赤子が樹の根元にいたのですが、ある長老がそれと気づかずその上に座り、圧死させてしまいました。世間では過失致死罪かもしれませんが、釈尊は業の面からその長老を無罪とおっしゃいました。
 しかし、助けようとしてうまくいかなかった分は、上手ではなく下手とは言えます。上手、下手も業になり、上手な方が良く、下手な方が良くないです。
 そのくらいの問題はありますので、次こそ頑張ろう、の気持ちで、他の生命への慈しみを持ち続け、なるべく手際よくやるよう工夫してみてください。

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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

質問者からのお礼

藤本様、丹下様
ご回答ありがとうございます!ハスノハでの初めての相談ゆえに緊張と不安でいっぱいでしたが投稿したその日に回答が来て驚いたと同時にホッとしました(笑)
実は今朝も歩道で蛾を見つけ、反省を生かして慎重に掴んで運びましたが逃す直前でまた予想外の方向に飛んで行ってしまい…。幸い傷つけはしなかったものの命を守る難しさを改めて実感しました。

お二方から頂いたご回答をもとに今後も一切を救済せんとする菩提心を起こして、尚且つ手際よく命を救う工夫も考えられるように精進いたします。本当にありがとうございました!

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