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3の数字の意味

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即身仏について本を読んでいます。その中で、「3年3ヶ月後に掘り起こす」や、「地面より3m下に埋める」など、数字の3をよく目にします。仏教には、この数字の3に何か特別な意味があるのですか?もしあるとしたら、どのような意味がありますか?また、意味があるとするならば、宗派によってその意味は変わってきますか?ご回答、宜しくお願い致します。

2021年9月16日 16:38

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏教の教理学的な意味は無い、と思います

 昨年、山形県酒田市の海向寺に行き、即身仏を参拝させていただきました。こちらのお寺は現在真言宗智山派に属しております。お寺の方に聞きましたら「真言宗智山派になったのは明治以降です。江戸時代は当山派修験に属していました。但し、実質は湯殿山修験というべきであり、本寺は湯殿山注連寺です。」とのことでした。「衆生済度のため、土中入定して「即身仏」となられました。この行は真言宗の入定とは少し異なり、湯殿山修験独特のものです。」という趣旨の説明でした。

 仏教語の辞典・事典は通常アイウエオ順に編纂されています。ところが、昔は法数(ほっすう)と言って、数字順に編纂されたものがありました。三以外のものを挙げると、二諦、二身、四有、四諦、四衆、四生、四顛倒、五戒、五蘊、五見、六道、六根、七宝、七難、八相、八正道などがあります。
 三で言えば、三宝、三学、三論、三界、三衣、三匝、三身、三尊、三途、三毒とたくさん有ります。(詳しくは、宮本啓一『仏教法数辞典』を参照下さい。)これらの三は仏法僧や戒定慧のように三種類のものを示す場合が多いです。三匝のように、回数の示すものもあります。ところが、若干の例外があります。一念三千は数的な根拠が有ります。ところが三千大千世界の三千は単に「たくさんの」と言う意味です。仏教語では無いけど「白髪三千丈」の三千も同様です。

 さて、ご質問の三ですが、中国の道教・陰陽道では三と言う数字が尊ばれることに関係しているのではないかと思います。ここからは私の推測ですが、修行の成就することを願って、期間や場所を設定するに当たって「吉の数字である三を選んだ」のだと思います。

追記
修験道については、以前の私の回答をご参照下さい。
https://hasunoha.jp/questions/20935

明治の神仏分離で多くの修験者が還俗させられ、廃寺とさせられました。1000字という回答の字数制限の枠内では、説明不可能です。「修験道」「神仏分離」で検索してみて下さい

 

2021年9月16日 22:30
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無量、無限、完全、この上ないという意。

昔から3とか7は良いもの、尊いもの、聖なるもの、完全なものという意味あいが民間でも「添えられて」きたのでしょう。
3に関する仏教語。
仏法僧の三宝。
身口意の三業。
経律論の三蔵。
貪瞋痴の三毒。
過去現在未来の三世。
過去現在未来にあり続ける身の回りの救いの働き三世諸仏。
ご本尊、および両脇の脇侍三尊仏。
世間で言われる言わるゆる「密集」を避ける「三密」も、本来は仏教用語です。
身口意の三業に仏印(人間の能動意識・有為を滅する=仏印)を標するという意味合いであり、本来は仏教用語です。
観音の三十三変化、化身や三十三間堂には無量、無限、この上ないというような意味が添えられているのでしょう。
仏教は人間がこの世に生まれて、この上ない安心、安穏、やすらい、無上なる心、この上ない精神を目指す教えです。
仏法僧の三宝の功徳とは、過去現在未来、三世十方に救いと安らぎをもたらせる素晴らしい働きです。これからも絶え間なく、ずっと継続、維持、保持されるべき人類の宝です。
大切なのは三という数字ではなく、仏になるための具体的な方法。行法。
それらは、外に求めるのではなく、実はご自身のうちにそのような素晴らしい無量、無限の功徳が備わっているということをこれを機縁・きっかけとして三昧、散策、参究してみてください。
即身仏も生きた仏も即心是仏も「いかなる様子をこそ仏というのか、仏といえるのか」が大切な問い・追求の姿勢です。

即心仏について
「いわゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり。
過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり。
是れ即心是仏なり。
即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし。
正に仏恩を報ずるにてあらん。」

いわゆる諸仏、仏とは釈迦牟尼仏であり、釈迦牟尼仏とは釈尊の事のみならず、この身、この心、この全身心の全授かり、授かりのすべてがそのまま仏=真実ということである。
過去現在未来の諸仏らが仏となられた時もみな必ず等しく釈尊と同じくこの身心がそのまま仏となられたからである。
それを即心是仏というのである。
即心(身)是仏とは誰であっても「その真意を」審らかに細かく参究し自身で明らかにするべきである。それがまさに仏恩を報ずるということである。その力、功徳によって多くの人々が人間本来のすばらしさに気づける力、機縁となるからである。合掌

2021年9月17日 8:35
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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の法話 あけましておめでとうございます。 新しい年を迎えました...
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質問者からのお礼

吉田俊英様 
丁寧にご回答していただき、どうもありがとうございます。大変助かりました。「3」の意味がわからなかったので、理解がとても深まりました。道教から来ている可能性があるという事で、本当に日本という国は中国の影響を至る所で受けているなと思いました。また、実際に海向寺に赴かれたということで、その場でしか聞けないようなお寺の説明が聞けて凄く助かりました。一つ3以外のことで質問があります。明治以降に真言宗智山派になったというご説明がありましたが、それまでは修験派だったという事はそれ以前は修験派が日本で仏教の一派として成立していたということでしょうか?それが、明治以降になくなってしまったから真言宗に属したということでしょうか?この辺のことを、ご説明して頂けますと幸いです。お手数ですが、よろしくお願い致します。

丹下 覚元様
丁寧にご回答していただき、どうもありがとうございます。大変助かりました。そういえば、753もそうだなと説明してくださった文を読んで思いました。そして、即身仏への理解が深まりました。即身仏という存在を知ったのはつい最近のことで、好奇心から興味を持ちました。ただ仏教の本を読めば読むほど、どうして生きたまま仏になるのではなく、即身仏は究極の追求の仕方を求めたのだろうという疑問にぶち当たりました。即身仏が生きていた時代と現代で倫理観が違うので、理解できないのは当たり前なのかもしれませんが、説明してくださったおかげで一つ即身仏への理解ができたように思います。本当にどうもありがとうございます。

吉田俊英様 

わかりやすくURLを追記してくださり、どうもありがとうございました。修験道と密教の違いがよくわかっていなかったので、自分の中で「きっとこういう違いだろうな〜?」と不明瞭に思い描いていたことに対して明確な回答が得られました。また、別回答に載せられていたホームページもとても内容がわかりやすく、あのホームページのおかげで、今まで頭の中でグチャグチャになっていたものの点と点を繋ぎ合わせる事ができました。アドバイス通り、「修験道」と「神仏分離」で検索して、より深い理解を得ようと思います。本当にどうもありがとうございます。

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もしブッダがナイフで刺されたら【他2点】

仏教の初学者です。何卒よろしくお願い致します。   ①ブッダがナイフで刺されたら、どう反応されたでしょうか。  慈悲で相手を許されるかと思いますが、止血しようとしますか?  「生への執着」すら持たないのでしょうか。(想像で構いません)   ②より良い生のため、「知足」と「向上心」をどう両立させるか? 以下の4パターンを考えてみました。   【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分   【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   しかし、諸法無我を考えると混乱します。 異なる線引きが適切でしょうか?     また、向上心は往々にして執着/煩悩に変わりそうですね。。   ③人間は「感覚」に「反応」して、喜んだり悲しんだりするかと。   A 感覚「喉が渇いた」etc. B 反応「不快だ」etc.   瞑想や修行で、A⇒Bの繋がりを弱めることは可能だと思います。 悟りとは、A⇒Bの繋がりが無くなる(=涅槃)との認識です。 そこで質問。悟ったら、生きてて楽しいのでしょうか? (批判する意図は全くありません)   一切皆苦を前提とした上で、喜んだり悲しんだり「いま」を味わうのが「生きる」とすると、悟ってどんな「いいこと」があるのでしょうか? (メタに考えると、一切皆苦から逃げたいという煩悩がある?)   或いは、煩悩と悟りの間でどうバランスを取られているのでしょうか?   長文失礼いたしました。 ピントがずれているかもですが、何卒宜しくお願い致します。  

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できる範囲での仏教でいいのか

短期間に多くの質問をして申し訳ありません。 hasunohaに出会って、自分の心と 向き合うための知恵や方法を少しずつですが知ることができました。 特に死生観や生きる意味については お経にしめされている教えや、hasunohaでの問答で 少しずつ道が見えてきたような気がして、 仏教の教えや考え方を取り入れて生活したいと 考えるようになりました。 そこで自分は、書籍などで仏教の作法やお経を調べて 実践しやすいものを生活に取り入れてみたのですが 家が檀家ではないし、近所にお寺が少ないので 自分がしていることが仏教的によいのかがわからなくて、 自分が読んだ本についても、今までの学の範囲内で 意味を考えているかもしれないので もしかしたら解釈が違ってしまっているかも、と不安です。 生兵法は大怪我のもと、のように 檀家でない人、制式に入信していない中途半端な人 が仏教の教えや作法などを生活の中に取り入れても 効果はないのでしょうか? 信仰はどこから有効なものなのでしょうか? また、今後自分がどうしていくべきか (どのように仏教と付き合い 生活の中に生かしていくべきか) を教えてください。 この質問が、今の仏教に対する冒涜のようになってしまっていたら 申し訳ありません。 乱文失礼しました。 追伸 今自分がしていること 寝る前に念仏を唱えて、阿弥陀さまにその日のことや 次の日のことについてご報告させていただくこと。 同じように空いた時間に念仏を唱えること。 お経や教えを心に留めて日常生活をすること。

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