なぜ今ここに生きているのか
こんにちは
私は現在無限恐怖症で、宇宙の果ての更にその先には何があるのか、なぜこの世界はあるのか、時間の概念は永遠なのかなどを考えしまい、最終的にはなぜ自分が今ここで生きているのかが分からなくなり恐怖を感じたり無気力になってしまいます。ちなみに、死ぬ事が怖いわけではなく自分の周りの世界が存在し続ける事が怖いです。西洋の哲学者はこのような問題は人間が考えても無意味だと言っている人もいて、確かにとある時は納得していたのですが、やはり頭の片隅にモヤモヤした気持ちが残ります。
今ある人生をしっかり向き合って生きたいのですが、どうすれば上記の悩みを考えずに前向きになれるでしょうか。
なぜ自分は今ここに生きているのかが怖いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
是非禅を実践されてください
考えて答えが出ることではないのです。
自他がないということも前提としてあります。そこがわかると今を生きている事実もよくわかります。
考えの世界には答えはない。
だからお釈迦様は徹底的に何にもしない禅の修行をされたのです。
生きる理由なんてない。自分とそれ以外だと思っていた世界はそうでは無かった。全部自分の様子でありながら、今まで自分だと思ってきたものは無かったと気づくのです。
考え方を学ぼうとか、知識得ようと本を読むことは控えたほうが良いです。実践から6根(眼耳鼻舌身意)を通して学んでください。事実という今がそこにあります。掴みようのない川の流れのような今。
禅を実践されてください。
無限恐怖症とは良い名前を付けましたね
「宇宙の果ての更にその先には何があるのか」について釈尊は、それは論理的に探せないでしょ?という意味の答えを出しているようです。果てだと思っていたその先なんて、あるとしたらまだ果てじゃなかったってことだし、そもそも果てを私たちの知覚で確認できるのかという問題があるし…釈尊は空間の「果て」を無辺と言います。禅定の世界はともかく、宇宙物理学でも、こちらの知覚能力が伸びれば伸びるほど果てのない宇宙の確認できる限界も伸びていくようです。
「なぜこの世界はあるのか」には答えていません。いかに、については、世界という物質(空間含む)を作るのも私たち生命の意志のようです。心だけの生命が世界を欲しがって、世界が生まれる、やがて滅びますが、その時心だけになる生命が、また世界を欲しがって……と続くと仏教では見ているので、なぜ?と言えば、生命が欲しがるからとも言えますね。つまり煩悩が世界を作っているということになります。
「時間」はただの概念だと仏教では見ます。モノや心の変化を、時間と仮に設定しています。「永遠なのか」もまた、計るこちらの限度までしか計れませんから、確かめようがありません。強いて言えば「時間」は輪廻ですから、始まりを遡るとこれまた「無辺」できりがなく、しかしこの先は、悟ると終点になります。ただし、自分だけ終点で、「自分の周りの世界が存在し続ける」のです。それが嫌な間は悟らないので、心配は要りませんが。
釈尊の初期仏教では、上のような問題を一つずつ解決して、「最終的にはなぜ自分が今ここで生きているのかが分からなくなり」などという問題に答えも出しています。答えを知るだけでも、だいぶ心が落ち着きます。
パーリ語の原典で読んでも分かりにくいその内容を、スマナサーラ長老が西洋的な考え方をする現代日本人向けに日本語でいろいろ解説しています。YouTubeや書物でお確かめください。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました!
少しずつですが、恐怖が消えつつあります。これからは、今を生きる事に向き合っていきたいです。