死の苦痛が怖くて仕方ありません
死の間際に感じているであろう苦痛が怖くて仕方ないです。
最近、ときどき「死ぬ間際の苦痛」がどうしようもなく恐ろしくなってしまうことがあります。
多くはフィクション作品やドキュメンタリーを鑑賞している際に感じています。「死」や「病」に関する描写が出てくると、ふと「死ぬ間際にはどのような感覚なのだろう」と想像してしまうのです。
例えば病であれば、病床で満足に動くこともできず逃げられないまま病による苦痛を味わい続ける日々を想像し、気分が悪くなってしまいます。
フランス革命の話題であれば、「ギロチンにかけられた場合でも間髪入れずに死ぬのではなく、一瞬は生きているだろうから、その際に激痛を感じているのだろうな」などと考えてしまいます。
それ以外にも、例を挙げれば枚挙に暇がありません。
調べてみれば、やはり「苦しまない死」を享受できる可能性はそれほど高くないとのこと。
私はこの、「人生の終わり間際に大きな苦痛が予約されている」という状況そのものに耐えがたい恐怖を感じてしまいます。
思えば、私は「予定された苦痛」というものが非常に苦手です。
以前、微熱と悪寒があり「もしかしてインフルエンザかも」と思った瞬間に、来たる高熱での苦痛への恐怖で血の気が失せて吐きそうになったこともありました(ただの体調不良でした)。
コロナウイルスのワクチンを接種した際も、注射そのものではなく、ほぼ確実に発生するという副反応へかなりの恐怖を覚えていました。
死の苦痛も、私の中では同じです。
死ぬことそのものにはそこまでの恐怖を感じてはいません。
ですが、そこに至る過程である「苦痛」の存在が、私は恐ろしくてなりません。
夜遅くや、朝起きたとき、ふと浮かぶその恐怖に押しつぶされそうになってしまいます。
こうした「来ることが確約されている痛み」への恐怖を和らげるためには、いったいどのような心構えでいればいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「死ぬことそのもの」の転換
こんにちは。
死に「至る過程」に「苦痛」があるだろう、こう予測して「恐ろしくてな」らないのですね。これは私にとっても恐怖です。期待に添えないかも知れませんが、私は「恐怖を和らげる」方法を知りません。また、この先恐らくその方法を見出すこと自体出来ないだろうと思っています。
何故なら、死そのものを経験した人はいません。どこまで行っても、それは死に近い経験や感覚であって=死ではないからです。そして、「ドキュメンタリー」等の題材もあくまで他者の経験と感覚であり、=自分の経験ではなりません。どこまでも死の訪れかた(「苦痛」がほぼ無いほど瞬間的かも知れません)も、受け止め方も千差万別であり、私とあなたで共通した「恐怖」ではないだろうし、ましてや「恐怖を和らげる」方法も同一にはなり難いでしょう。
あなたは、「死ぬことそのものにはそこまでの恐怖を感じてはいません」と書いています。ただ、私が思うのは「死の苦痛」も「死ぬことそのもの」に含まれることではないかということです。「死」は、先述したように万人にとって未知であり、不確定であり、予測不可能です。
予測不可能である死だからこそ、どんなことが起こるかわからない、どんな「苦痛」が襲って来るかわからない、となるのではありませんか。
私は、「死の苦痛」だけを取り上げて論ずることは難しいと思います。むしろ、「死ぬことそのもの」全体に向き合うことこそ本質的な打開策だと思います。
私は、日頃から自分の仏教では「死」ぬのではない、と教えられています。
生まれるのだと。
極楽浄土へ往き生まれる(往生)する、と(輪廻転生とは全く違います)。
阿弥陀如来様が私を極楽浄土へお連れくださる、そのおかげによって仏と成らせていただくのだと。
予測不可能な「死の苦痛」があろうとなかろうと、往生極楽だけは揺るがない。そういう安心に生かされている、と思っています。
「死ぬこと」が生まれることに転換される。
そう気づくと、「死の苦痛」は生まれる「苦痛」に転換されるとも言えます。
ここには大きな意味の差が出てきます。
そして、その命の変わり目を仏様と共に超えていけるという心強さがあります。
一人で死と向き合っていくのか。
仏様と二人連れで生まれるという希望に向かっていくのか。
この先の選択はあなたにお任せします。
何もかも瞬間ごとに生滅変化する
と思えばいかがでしょうか。
死の苦痛が来たときは、どうせそれに集中して、他のことはもう考えられなくなります。なんとか苦痛が和らいだら、もうあの苦痛は嫌だと怯える? 対処できるかどうかいろいろ工夫して緩和できるように努力するでしょう。それでも次の苦痛が来て、また、それだけに苦しんで、苦しみが体の限界を超えたら死にます。死んだら、その体はもう自分のものではないので、その体からの苦痛を受けずに済みます。新たな体で頑張ります。天人か餓鬼か畜生か地獄か、それは業によりますが。
その体でも死ぬときがまた来ます。また同じように悩み苦しみます。悟るまでずっと続く輪廻の、この一回分の苦痛を、これまでもずっと続けてきて忘れていて、悟るまではまだずっと続くなあと感がえて、この一回分にも対処すると、なんだか特別なものではないように感じられませんか。
昔は親や親族の死に立ち会い、死ぬときの様々なあり方、苦痛の有無などを、自然に観察していました。今はそういう縁が希薄で、シミュレーションしにくくなっただけです。自分も含めて誰もが何度も経験してきたことです。そのたびに死に方が違います。でも、苦痛が体の限界を超えたら死ぬ(心が体から逃げる)理屈は同じです。
スマナサーラ長老のYouTubeにも何かあるかもしれませんので探してみてください。