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厄年について仏教はどう考えますか?

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以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった
お坊様方、ありがとうございました。
さて今回は厄年について質問があります。
付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑)
体調を崩し休職しました。
彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。
遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。
少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

気にする必要はない

厄年は、気にする必要がないと思います。
概念上の幻、言葉だけで実体が無いものだと思います。
ただし、年齢相応に自分や家族の健康問題などは起きますし、諸行無常だから全てはいつか壊れますので、年齢相応の苦しみやアクシデントはあり得るでしょう。
私が好きな歌の歌詞を紹介します。
「二人の未来に待つのは深い闇、失望、孤独
誓った愛でさえ死が二人別つだろう
でも僕は それでも僕は 君が好きだよ
僕は歌うよ」
厄年に関係なく苦しみや離別からは逃れられないけれど、それでも一緒にいたい相手がいることは幸せでしょうね。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

こんにちは

 厄年については過去にも問答がありますのでご覧下さい。

https://hasunoha.jp/questions?utf8=%E2%9C%93&query=%E5%8E%84%E5%B9%B4&sort=&commit=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

 厄年は、年齢的に「今まで通りに体が動かなくなってきた」と感じる年齢のようです。また「役年」といって、地域から何らかの役(自治会やお祭りなどの役員)が回ってくる年頃でもある、ともいわれています。外部から何かがやってきて悪いことをもたらすという事はありません。

 もし厄年に思い通りにならない事が起こったとしても、それは厄除けのご祈祷をしなかったからではなく、きちんとした理由があると心得ましょう。

 一方で厄年に周囲に贈り物をしたり親切にするという風習は、初めて聞きましたが興味深い習俗だと思いました。大切にしたいものです。建物の上棟式で餅をまくのも施しをして厄をはらう意味もあると聞いたことがあります。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

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もし、個人として神様仏様の教えに忠実にリンクして日常生活、今までの人生になにの後ろめたいこともなければそのまま世間の人から愛されて生きてください。
そんな人はたぐいまれなのではないでしょうか?むしろ、偏った自分が集めた情報だけで、心底間違いない生き方をしているかどうか…?うーむ、最近ちょっとダメだな…、とか、人生でそういう気持ちで生きたことなかったなァという気持ちがあれば、なぜこの世に神仏を敬う建物や活動があり、神仏を敬う人たちはどことなく「いい雰囲気」もっているのかを科学的にも追求してみたらよいと思います。私も疑い深い方でしたからこそ、とことん追求してそれでもやはり間違いないという確信を得たからこそ、本当の意味での信心、信仰心が芽生えました。
人間の寿命と安全面を見つめたうえでも厄年は「一度ストップ、一息入れなさい。」という大事な立ち止まりと軌道修正の上でも大事なこと。
古来より、人間生活の一生を眺めてきた人たちがどういうわけかみなその「年齢前後、段階、状況、節目」で体を壊したり、不注意から事故が起こるなどのことがある。それが人間の成長の過程の中における負担のかかる節目なのかもしれません。
絶対にこの年に起こる…!というわけではないですが、おおよそその前後に体の不調や心の状態が不安定になるということが「ないわけではない」「ある」「そういう人が多い」ものなのです。
だから、周りの人はかわってあげられません。本人の問題だからです。ですが、おおよそ多くの人が身心のバランスを崩しやすいその年齢の前後に神仏を拠り所として自分自身の身心、生活、習慣、人間関係、環境、当たり前となっている事、自分の身心に影響を及ぼしている事、エゴ、性格、健康状態を見つめなおすのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

皆様、お礼が大変遅くなり申し訳ありません。丁寧な解説をそれぞれありがとうございました。いろいろ振り返ってみると、自分自身年齢を重ねたわりに出来ることも少なく、思い通りになることが全然無いと非常に焦ってしまっていた節がありました。それを身近な人にぶつけ、厄年のせいにし、なんとか状況を受け入れようともがいていたように思います。
厄のある時期が来るのではなく、神様仏様がそんな人間に「ちょっと落ち着きなさいよ。」と時折ストップをかけてくれるものと考えるようにします。
祈りと良い思いやりを忘れないようにしたいです。
ちなみに施しの習慣の件ですが、私の住む地域は餅まきと菓子まきの行事が多い場所で、全国的に有名な大きな厄除け祭りもあります。
そうした行事がコロナ禍で長らく縮小、中止となっています。寂しい限りです。

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