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「我」を捨てるわたしは「なに」でしょうか

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有り難し有り難し 22

こんばんは、早速本題に入らせていただきます。

心をただ観察し、一つずつ、苦しみの根源を辿っていくと、省略してしまいますが最終的に「わたし(我)」に執着していることが原因だと思いました。

なので「我」を手放せば、一切の苦しみから解放されるはずです。
ですが、「我」を手放すのは誰で、「我」を手放した後の「わたし(肉体)」は「なに」であるのでしょうか。

例えば僕が悟ったとして、僕でありながら全く違う存在になった時、それは「我」ありきのもので、「我」なしに幸せ(以外の全ての感情も含む)を感じることは不可能であると思ってしまいます。

・苦しみがあるから幸せを感じられる
・苦しめる「わたし」があること自体が幸せだ

僕のこういった思考は、生きたいという本能から逆算で身につけたもののような気もしますが、生きることに対して能動的になった今、「我」を持つことに対して、仏教がどのような態度をとっているのか気になったのでご回答よろしくお願いします。

2022年5月8日 19:11

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

我を捨てると「なに」でもなくなる

我とは空っぽになるとか虚無的になると思っておられるのではないでしょうか。それこそが我の勝手な妄想や思い描きなのです。
本当に我を滅するとそういう我の思い込みで無くなるのです。
昔、ジャンプやマガジンなどで仏教ネタマンガがよくありましたが、そういうファンタジーも人間の我が思い描く世界です。
( ゚Д゚)ㇺになったらきっとこうなのだろう。
( ゚Д゚)さとりとはきっとこういうものであろう。
悟ってない人やㇺになっていない人が勝手にそういうものを豪快かつ盛大に思い描くのはどこの誰の我が描く世界か。
たとえば池上彰氏やYOUTUBERの中田敦彦氏などが説明が上手という理由で仏教をネタに解説をするとめちゃくちゃになるのです。本人がまるで無知だったり、本当の真意をわかっていないのに知識者ぶっていい加減なことを吹聴してしまう。そうすると専門家ではないいいかげんな論説が有名力を通して世間に広まる。そういうものを目にする耳にすると人は仏教に対しても誤解を持つ。違うことを思い描くのです。
あなたの我を捨てるということのイメージも何かの書物をご覧になられたり、人から聞いてそういうものではなかろうか?という思いが生じているのかもしれません。ルーツは何か。そのルーツとなっている根拠はただしいものか。
道元禅師の時代でもいいかげんな仏教は山ほどあったそうです。道元禅師はそういういい加減な教えを吹聴するものを「邪師」と痛烈に批判しておられます。
どんなに有名な僧侶であろうとも、どんなに教団を大きくしたとしても邪師は邪師。導く先がヘンテコリンな妄想ワールドだからでしょう。
我を捨てるには、人間の能動意識の活動をしない・させない・動かさないだけで良いのです。すると、我という身心の上にいつの間にか起動していたアプリのような我の意識が立ち上がる以前の様子になる。我がないと言っても感受作用はあり、その法に住した状態を維持することは可能です。住職は本来住持人のこと。自己の身心の我の意識を忘じた様子になって、その人我の見解を離れた様子、法に住することが住持、行持ということであり、修行とはそれを行ずることです。
論より実証。
論ずるより、自分が正しい道理を通して本当に我の立ち上がり以前を求めて自己の心の能動意識を休止することです。そこから先は面白くてやらないわけにはいかないでしょう。

2022年5月9日 8:40
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

『我とは何かーーパーリ聖典の範囲で』

という論文を昨年「パーリ学仏教文化学」34号に発表し、そろそろインターネットにも出ると思います。inbudsとかciniiで藤本晃で検索すれば出ると思います。
 要点は、他宗教では「我がある」が前提で、それがどういうものかを探求するのに対して、初期仏教では「我ってありますか?」をまず探求し、悟ったときに、我があるわけではないのだ、刹那ごとに生滅を続ける心身の流れにすぎない=無常、それゆえ空しいもの=苦、もちろん我もない=無我だと「ありありと分かる」という構造です。
 生滅の連続なのに苦、楽、不苦不楽を感受し、善悪業を行為し、その結果を、連続の中で「自分」が受けます。
「我がある」と考えるのと何が違うのかと言われれば、その構造が修行によって自ら体験できると、本当に生きるからくりに対して執着がなくなり、本当に煩悩なく、智慧と慈悲で生きられる、ということです。
「我を捨てる私は何・誰?」という問いも、後から、問い自体が間違いだとわかります。我があるのではないとわかることは、我でない何か・誰かがいるのではなく、無常、苦、無我の連続なのだとわかることでもあります。

2022年5月9日 7:26
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

真実があります。

AAさん、ご質問ありがとうございます。

回答については、宗派によっていろいろなものが上がってくるようにも思いますが、とりあえず私がよってたつところの浄土真宗を立場としての私の答えを。

苦しみの原因を「わたし(我)」に執着していることが原因ということに気づかれたあなたは、非常に優れている方だと思います。
 
私への執着=我執を煩悩と言い換えておきましょう。
煩悩によって私への執着はやみがたいものとなっています。
「煩悩に眼さえられて」と親鸞聖人がご指摘になったように、それは煩悩によって真実が見えないということでしょう。
煩悩は決して悪いことばかりではなく、生きる力となることもあります。
しかし、真実を見ることを妨げます。
ただ、煩悩のない人はいません。
あなたが挙げられた、
・苦しみがあるから幸せを感じられる
・苦しめる「わたし」があること自体が幸せだ
というのは、人生の事実としては正しいと思います。
ただ、それが「真実を見る」ことを基準に考えると、どうでしょうか?

真実を求めると、煩悩を持つ「わたし」に執着してるわけにはいかない。
そして、「わたし」への執着を捨てたときに「真実」が見えてくるのでしょう。

煩悩の火を消すことは凡夫にはできないことと言ってよいでしょう。
私たち凡夫は阿弥陀如来の御本願によって、我執を捨てられない身ながら、救われていくのです。

2022年5月8日 22:29
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有り難し
おきもち

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真宗山元派上西山正善寺住職

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