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浄土真宗(お西さん)亡くなった後の考え方

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私は浄土真宗では無いのですが、今回母方の祖母が亡くなりました。お西さんでした。考え方と葬式での話になるのですがご了承ください。

浄土真宗では亡くなった後すぐに仏になるとありました。
そうすると、棺に手紙などを入れても結局遺族の自己満足で終わると言う事なのでしょうか。(冷たく考えればどの宗派でもそうなってしまうのかもしれませんが)

49日や各七日の考えも、故人の為ではないと言う事なのでしょうか?
私は父方が曹洞宗で子供の頃に習った話だと、こう言った法要は故人のためだったはずなのです。子供の頃の記憶なので完全に間違ってるかもしれませんが。

祖母にはとても愛されて居ましたし、私も大好きな祖母です。
祖母の為には何をしてあげれるのかと思うとちょっとわからなくなってきました。
今年は新盆ですが、お供えを故人の事を思って選んだ方が良いのか、適当で良いのか・・・
私としては故人の事を思って選びたく思うのです。

また、納棺の際に他の遺族の連れ合いが壁に寄りかかりながら腕を組んで参加していたりしたのですが、お坊さん的にはこれってありなのでしょうか。
その連れ合いはまだ若いです。最近結婚したばかりなので、祖母ともそこまで面識がありません。

私からすると参加するのであればちゃんとした態度で参加した方が良いですし、そこまで人から見える場所に居る立場ではないとはいえそう言う事はやらない方が良いと思います。
これが母や叔母が憔悴しきって居てならまだ分かりますが、当日来たばかりで憔悴するような立場ではない人間なのです。

こうあるべきと言う考えが強いのかもしれませんが、ちょっと腑に落ちないのです。

2022年6月30日 9:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

阿弥陀仏への合掌の中に、仏様としての故人は還って来る

こんばんは。亀山純史と申します。

私からの回答は、あなたからのご質問の一部分へのものになってしまいますが、ご了承くだい。

さて、浄土真宗において手を合わせる方向は、どこまでも阿弥陀仏です。『歎異抄』の第5条は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」で始まります。これは、「私、親鸞は、父母の供養のために、念仏を称えたことは、一度もありません。」ということです。

しかし、故人は阿弥陀仏の世界に仏様としてお生まれになるわけですので、阿弥陀仏に手を合わせることは、そこにお生まれになられている故人にも、あなたの合掌は向けられていると、私は考えています。つまり、直接、故人のために手を合わせることはしませんが、阿弥陀仏に手を合わせることが、そのまま、仏様になられた故人にも向けられた合掌となり、阿弥陀仏への合掌の中に、仏様としての故人は還って来るのです。

また四十九日などは、確かに他宗派と同じ意味を浄土真宗において見いだすことは難しいでしょう。しかし、浄土真宗において、四十九日などのお参りは無意味なのか、と言えば、私は次のように考えています。それは阿弥陀仏へのお参りに、故人を偲ぶということが加わる時、そしてその一つ一つのお参りに、「改めてのお参り」という意味を持たせようとする時、その一つの形が、故人が往生してからの七日後(初七日)や七週目(四十九日)のお参りであろうと考えています。

ところで、故人を偲ぶとは、どういうことかと言えば、それは「私たちがどうあれば、故人は喜んでくれるか、安心してくれるか」ということを考えていくことだと思っています。そしてそれは、故人は仏様の世界にお生まれになっているわけですから、私たちもまた、仏様を敬い、仏様の教えに耳を傾けていくことが、故人が喜んでくれること、故人が安心してくれることに他ならないのではないでしょうか。

以上が私からの回答です。少しでもご参考になれば幸いです。

2022年6月30日 21:57
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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧...
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供養とは

本来、目上の人を尊敬してお世話することです。その功徳が自分に生じます。
 故人に対して直接お世話(供養)できないので、お坊さんなどを供養して、その功徳を、「これはあなたのためにやったんですよ。あなたもこの功徳を受け取ってください」と念じて故人に手向けます。現代日本で供養と言えば、この、故人のための功徳回向を意味することが多いようです。
 曹洞宗の言い方のほうが本来の意味に近そうです。真宗西の言い方でも、仏になってもまだ消えたわけではなく浄土で生きているなら、供養して功徳を受け取ってもらえるでしょう。他者からの功徳回向が必要なくても、やってもらったら、相手のその善行為を一緒に喜んでくださいます。
 真宗西系の一部の人が、死んで仏になる=消滅すると思っていて、故人はどこにもいないのだ、などと言う場合がありますが、これはその人が間違っているので気にしないでください。
 現世で悟って仏になったら、死後には消滅します。悟った人には、まだ生きているうちにいっぱい供養して徳を積むべきです。
 現世で悟らず、死ぬときにいきなり悟る人もまれにありますが、真宗西の人はそれを想定していないと思います。
 悟ってから亡くなってもはやどこにもいなくても、死後にも偲んで供養すると、自分の功徳になります。ブッダ釈尊だってもうどこにもいませんが、みんな偲んで供養しています。自分の功徳になるし、後に続くお坊さんたちへの力にもなります。
 死ぬときに悟るという現代の真宗西の言い方は、浄土で悟りの生活を送るということのようです。浄土≒天界に往生(転生)してお元気なら、功徳回向して届きます。
 最近の僧侶のへ理屈はスルーして、本来の形の通りにやって間違いありません。
 つまり、供養とは本来生きている人間同士のお世話。お世話すると功徳になる。
 故人には直接供養できないので、生きている人を供養してその功徳を回向する。供養して回向する人は二倍の功徳になる。
 故人が転生せず消滅していても、故人を偲ぶことも、誰かを代わりに供養しても、どちらも自分の功徳になる。功徳を回向しようとすると、故人が消滅していた場合は空振りになるので、補償を取って、故人「と一切衆生に回向」します。別の亡くなった縁者とか誰かが功徳を受け取ってくれます。
 藤本晃『功徳はなぜ回向できるの?』国書刊行会をご参照ください。

2022年7月1日 9:03
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初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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質問者からのお礼

浄土真宗では阿弥陀如来に対しての考え方があるのですね。
理解できるようになりたいと思います。
ありがとうございました。

藤本晃(慈照)も有難うございました。
一括のお礼だとは思って居ませんでした(汗
残された祖父と亡くなった祖母の為に出来る事をしようと思います。

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