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空、諸行無常、諸法無我、中道の適用範囲

回答数回答 2
有り難し有り難し 17

諸行無常、諸法無我、中道は空(あらゆるものには実体がない)と同じようなことを表してるとおもうのですが。
これらの適用範囲は現象世界、現実のみなのでしょうか?
如来もダルマ(真理)も心も、空だと言った説も見かけるのですがそれぞれの正しい適用範囲を教えて下さい。

2022年7月6日 3:50

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悩み苦しみをなくす観点

仏教は、悩み苦しみの原因をなくすための教えでしょう。
だとすれば、何を無常だと思えば悩み苦しみが消えるのか?何を無我だと思えば悩み苦しみが消えるのか?という視点で考えてみるのも良いと思います。
無我に関しては、諸法(私達が考えつくあらゆるモノ・コト)が無我であり空であるのは真理ですから、如来やダルマも無我(単独で存在する実体は無い、因縁により存在する)と言えます。
悩み苦しみをなくす観点で言うと、自分が執着している対象を「あ、これも本当は無我だった」と気づくようにすれば良いと思います。
無常については、これもほぼ全てのモノ・コトに適用して良いですが、せいぜい、実際に私達が眼耳鼻舌身意の六根で感知できるものを無常だと気づくようにすれば十分でしょうね。
如来や涅槃について、私達はあれこれ想像はできますが、その想像は意根の対象である法境であり、如来や涅槃そのものではないのです。法境(私達が意識でキャッチできる情報)は無常・無我であり、苦でもあります。
生きているかぎり苦は無くなりません。
ただ、苦の形が変わっていくだけ。
涅槃に入らない限り、苦(毎日毎分毎秒の宿題・やるべきこと)が次々と出現しますね。
以上、私のような浅学の者が回答するには荷が重いご質問でしたが、何日も無回答だと申し訳ないという法境の苦(宿題)に意識が突き動かされたので、恐る恐る回答させていただきました。

2022年7月8日 4:51
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

実体がないから何なのか?どういうことなのか?という問いを持つ

如来とはどこぞに存在するいポイポ頭の姿をした謎の存在ではではなくこの自己の身心が今ふれている来たるが如く去るが如くに現れている一切のこと。法とは人間の見解を離れたこの世のはたらき・作用そのもの。
「この世のすべては実体がない」
こういう論説をよく見かけますが、仏っちゃけその類の解釈は「救いがない」ものが多いと感じます。説明不足といいましょうか…「実体がない」から何なのか?。だからどうだというのか。そこがもっと丁寧に追求されるべき大事なポイントでしょう。実体がないない言っても、救いも無ぇ。(IKUZOか)実体がないということが「どういうことなのか」が説かれなければ虚無的な教えと誤解されてしまう。論のための論・理論・理屈のような仏教「解釈」では現実の人々は救われない。その人が一体何を言いたいのかもはっきりしない❝実体のない❞説示も多いです。要はその人もよくわかってないのが実態なのかもしれません。
諸行無常
諸法無我
中道

これらは仏教の救いの道理。この世の最初からの真理。もともとの様子。本来の様子。外のことにしないことが大事です。
わが身に映し出されることの一切が元々「そう」だということ。
外の現象がどうだとか、この世の一切が無常、無我だとかおおざっぱなことにしていると永久に自分のことにならない。
「この世のすべてはうつりかわる」という他方のことは説明されなくても理科でも勉強すればわかることです。世間の教科書的な仏教書や辞書にはそういう表記がなされているものばかりでその内容が説かれていないのはいまだ「残念な仏教」です。
大事なことは無常・無我・中道・空ということが説き示すことの救いの作用。
無常ゆえに人は前のことを離れていつでも救われている。全自動浄化。オール自動更新されているが故に人はいつでも救われている。
無我・空・中道ゆえ人のあらゆる見解や㋬理屈を離れた自由で解放されっぱなしの常に済度・成仏状態にあるのです。事実は見解や解釈を超えて人を傷つけることがない。
適用範囲は一切。この自己に映し出されること一切です。今いるところで感知することのできない地球の裏側がどうであってもそれを感知することはできないですが、そこはそこでそれぞれ一切が無常で空じられて無我なる様相。
この空相なるKUSO長い文を最後まで読んだ人も文字の一文字一文字どこにも残っていないという全自動空。

2022年7月8日 6:27
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
人間が意識・想像できることは空なんですね。
方便法身も法性法身も空かな?と考えられる・意識できるってことはどちらも空なんですね。
質問のきっかけが慈悲(心)や喜びが、空や中道に当てはまるのはおかしいのでは?と思ったからなんですが。
これらも想像できるので空なんですね。

ありがとうございます。
自然法爾、スピノザの神と同じようなことでしょうか。
スピノザの神は、万物すべてが神でそれ以外に神はないということかと思います。
仏教的には空の範囲外があるのかないのか気になります。
人間が考えられる範ちゅうはすべて空で、考えられないことは考えない=無記でしょうか。

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