親しいかった故人の供養をしたい・・・・
初めてご相談させていただきます。
最近、27年ほどお付き合いしていた方が病気で他界致しました。
亡くなる3週間前に電話て話をしたばかりだったのに・・・・。
未だに亡くなったことが信じられなく涙もでなくて、私自身が受け入れることができない状態です。長い間かけがえのない存在でした、色々な事情があり葬儀の参列は許されず、また籍は入れてはいませんでしたので当然戒名も教えてはいただけず、私は故人の供養をしたいとの想いが強く残ります。
故人は真言宗豊山派(だったと思います?)、私の方は浄土真宗本願寺派です(両親健在の為お仏壇はなく、両親とは別居してます)。
宗派が異なりますが、故人の供養を(俗名)でしていただける寺院はありますでしょうか。判っているのは、亡くなった日、享年、俗名、干支、生年月日です。できるものならば、家でお位牌の代わりにお仏壇はありませんが小さな観音様をとも考えてますが宗派が違うのでいけないことでしょうか。
宗派が違っても自宅供養というのがあるようですが、どの様なものを用意が必要でしょうか。
供養についてのアドバイスをいただけましたら大変心が楽になります。
僧侶様、どうぞよろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
しばしば飛び込みで読経を依頼されることがあります。
私も全く見ず知らずの方が来られて供養をお願いされることがあります。事情は様々だと思いますが、そこまでは詮索することはしませんし、やはり大切なのは、その忌いたいというお気持ちです。
深い事情を話されなくても、読経を引き受けてくれる僧侶は必ずいます。最寄りのお寺を訪ねられてはいかがでしょうか?
失わせないことが供養
人は物事に終焉、終局、喪失を見出した時にこころが停滞します。
これが苦しみです。
今ある現実の状況に対して、自分の思いや願いを重ねる。
ところが現実は自分の思いや願いどおりではない。
その時にギャップが生まれる。これが苦しみです。
私にも親友がいます。もし亡くなってしまったら、勿論ご供養はいたしますが、自分の中で失わない在り方、失わせない関わり方をしていくと思います。
それが最上の供養です。
それは仏の法に目覚めることです。
物事には終わりがない、相手が亡くなってもこちら側の故人に対する想いには変化はない。
こちらの気持ちがあり続けていくという事は今後も関わりを続けていく。
確かに関わりの在り方は変わっていきます。
ですが、人間は内なる自己の中の相手と語り合うことができる万物の霊長です。
カタチの上での供養、しきたり、作法うんぬんより、きちんと故人様と生前と変わらない心の通い合いを続けていくためにもあなたが故人様を、亡き人だからと言って終わらせない、終局終焉にしてしまわないことです。
川の流れは海に注ぎ、雲と転じ、雨にも、霧にも、雪にも変ずるのです。
そこに終わりはどこにもありません。
わたし共が故人を想う気持ちに終わりなどありましょうか。
その内なる霊性※に気づかれることが故人を死なせたままにしないための在り方です。
ちなみに当山でも俗名でのご供養は致しております。機会がありましたらお参りください。
※霊…霊とは亡き人を想う、内なる思いの事である。
是非、なさって下さい。
その方を想い偲ぶ
形は一切必要ないと想います。
大切な事は、気持ち。
どうぞ、精一杯ご供養をしてあげてくたさい。
観音様、よろしいと思います。戒名が分からないならば、俗名でお位牌を作ってあげてはいかがでしょうか。
お花、ロウソク、線香の三具足。あとは、お供え物で、良いかと思います。
お寺については、残念ながら東京の事は、わかりかねます。
観音様は、そのようになさって下さい。
オブジェでは有りませんから、かならず、三具足も用意されて、花、蝋燭、線香をお供えして、下さい。
出来れば、俗名で、位牌を作られる事をお勧めします。
ご供養のカタチについて
お月見うさぎ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ご供養のお気持ち、誠に有り難く尊いことでございます。
ご供養のカタチにつきましては、これまでにも下記の各問いにて荘厳に関してお答えをさせて頂いております。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/荘厳
問い「生前の写真にお供え物をする事 再問」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002999474.html
「・・一定の尊いものへの配慮、失礼に当たらないような扱いというものが必要になるのではないかと考えております。このことを仏教では「荘厳(しょうごん)」と申しまして、中身は当然として、ある程度形式を重視するのも、形式をその尊いものへの配慮の現れとして扱うからでございます。もちろん、形骸化した中身の無い荘厳であってはいけませんし、何でもかんでも豪華絢爛でなければならないというのではなくて、身の丈に応じて、できるだけ尊いものを尊いものとして扱えるように調えて参りたいというところでございます。・・」
・・
「宗派が異なりますが、故人の供養を(俗名)でしていただける寺院はありますでしょうか」・・
それぞれのお寺や僧侶の方針にもよりますが、丁寧に事情を説明してお願い致しますと、大抵は真摯に対応して頂けるのではないかと存じます。拙寺でもご縁のない方によるご供養のお申し出においては、卒塔婆をご用意させて頂いてご本堂と地蔵尊前にてお勤めをさせて頂いております。
ご自宅にお祀りになられる観音菩薩様、お位牌のお開眼式も同様に丁寧に事情を説明してお願い致しますと快く引き受けて下さるのではないかと存じます。
観音菩薩様のことにつきましては、下記の問いの拙回答も少しくご参照下さいませ。
問い「自宅敷地内の観音様について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1006205006.html
また、ご供養のカタチにあまりとらわれることなく、善い生き方を調えることも実は大切なご供養となります。「功徳」と申しますが、このことも少しお考えを頂けましたら有り難くに存じております。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
林鴬山 憶西院 超覚寺 和田隆恩様、大法寺長谷雄蓮華様
ご回答を頂きありがとうございます。
今は何でもいいのですが何かをすることで、現実逃避(死を受け入れる)かもしれません。
時間の経過とともに、もうこの世にいないんだー、身体もなくなり魂になってるんだーと考える様になりました。故人の供養を一番に考え、最寄りのお寺さんを訪ねて読経を引き受けてくれるところを探したいと思います。
自宅供養の観音様の件ですが、種類があるようですが一般的に観音様といわれている聖観音菩薩様で良いのでしょうか。
再度で申し訳ございませんが、アドバイスをお願い致します。
再び、ご回答をいただきありがとうございます。
そうですね、聖観音菩薩様はオブジェではありませんよね。
魂の入った観音様です。お花、蝋燭、お線香の三具足を用意致します。(魂入れを忘れないように・・・・)
初めての事なので判らないことだらけですが、故人の供養の為、また自分の為に致します。
Hasunohaに出会えて本当に心が救われました。僧侶様からのお言葉が心にしみて涙がでました。
もっと早い時期に、Hasunohaに出会えていたら人生が変わっていたかも知れません。
僧侶様と出会えたことに心より感謝いたします。ありがとうございます。
また心が苦しくなってしまったらお世話になるかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します。
安穏寺 (天岑寺) 丹下 覚元 様
ご回答をいだだきありがとうございます。
今はどう向き合っていけば良いのか判りませんでした。亡くなってしまった悲しみと絶望感で走馬灯のように巡ってきます。
亡き彼を忘れることなど絶対になく、愛す想いは今後も変わらないです。
しかし彼は故人となってしまっても生前と変わらない心の通い合いを私とできるのですか。私のところに会いにきてくれますか・・・・。今も毎日想っていますが今のところまだ一度も来てくれません。(霊感がない私かしら?)夢にも出てきてくれません(涙)。
是非、、安穏寺にお参りにお尋ねしたいと思います。よろしくお願い致します。
ありがとうございました。