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過去を思い出して苦しくなります

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過去に自分がしてしまった、間違えたことや誰かを傷つけただろうこと、全てを思い出して苦しいです。

失敗したこと、間違えてしまったことばかりで自分のようなクズな人間が生きていていいのか分かりません。不安でいっぱいになり、考えることがつらいです。でも、考えないようにしてもいいのでしょうか?

過去に間違えたことはまた間違えることのないように気をつけて、これからを生きてもいいのでしょうか?

持病をなおしたい、夢を叶えたい、死にたくないと考えてしまいますが、そのどれも許されないような気がします。人を傷つけたのに、間違えたのに、自分が幸せになることは許されるのでしょうか。

過去も今も苦しいことばかりで、これからもきっと苦しいだろうと考えてしまいますが、これからのために努力してもいいのでしょうか。

つらいことは考えないようにして、これからのことを考えてもいいんでしょうか?

読んでくださってありがとうございます。ハスノハのお坊さん方にいつも助けられています。本当にありがとうございます。

2022年8月30日 10:52

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

反省(懺悔)と心の向上心(菩提心)を持つ

人間は生きていれば、知らない間に家族や他人様にご迷惑をおかけしてしまうことがあるものです。
仏教では人間がうっかり悪気はなくても他人様にご迷惑をおかけしてしまったこと、悪い作用となってしまった行いの反省をし、慎みの心を大切に生活いたします。それを懺悔(サンゲ)と申します。
キリスト教では懺悔と書いてザンゲと読みます。
仏教では懺悔と書いてサンゲと読みます。
ご紹介が遅れました。当方、丹下と記してタンゲと申します。
今の時代、たった一言、親切のつもりで言った言葉ですら相手によっては悪く受け止められてしまいSNS、ネット内では毎日炎上です。
反省とは自分の人生をより豊かに、間違いのない方向を目指して心を押し上げるべきものであって、一生土下座しっぱなし、謝りっぱなしのような姿勢でいる必要はありません。
ちょっと以下の事を考えてみましょう。
👧
あの時のあのことが悪かった、アレが悪かった、あれも悪かった、そして、あれも駄目だった、あれもダメで、これもダメで、そんなことを考えてしまうアタシもダメで、こんなことを考えていると何もできなくなるアタシもダメで、きっと明日も駄目だろう…
ダメだ、どうせ、でも、だって、DDD…、
こういうことを考えている時も人生は続いているのです。
では、全自動で続いている人生、世界とは別にあなたは何をやっているか?
それはネガティブな思考をしている。
ネガティブな判断・判定をしているだけなのです。
アレがダメだったというネガティブ評価、ダメ出し、DISりだけであなたの人生が豊かになりますか?なりませんよね?
大切なのはそこから心をより豊かな心へと押し上げる向上心です。
これを仏教では発心、発菩提心、菩提心をおこすと言います。
自分の人間性がより豊かになるように志を持つ、高めるということです。
お釈迦さまも仏教の祖師様たちもみんなこの菩提心を強く起こして悟りや涅槃を求められて、さらには一切の人々を救済しようという心をおこされたのです。
そこまでできなくても構いません。
ですが人はこの菩提心という「すべてを救いに変えよう」「すべての存在も出来事も救いに導こう」という精神があると行いが自然にネガティブではなくなるのです。
ネガティブな自分の心をも救おうという心になるからです。
救うべきは自分の心の負の習慣。ぜひ高く菩提心をおこしてください。🕯

2022年8月30日 14:40
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元さん
回答ありがとうございます。
仏教では懺悔と書いてさんげ、と読むのですね!ざんげという読み方しか知らなかったので、知ることができて嬉しいです。

確かに今の自分の状態は、ますますネガティブになっていくのみで、何も出来なくなっていると感じます。
菩提心をおこすことが出来るように、今の状態から抜け出せるように努力してみたいと思います。
丹下さんのお話を聞いて、少しポジティブになれそうな気がしてきました。本当にありがとうございます。

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