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仏教がおとぎ話のように思えてきました

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家族を亡くして3ヶ月、心を落ち着かせるために、何冊もの仏教書や動画の法話など聞いておりました。いろいろと疑問も出てくるので、大学通信教育で専門に学ぼうとさえ思うようになりました。
しかし、最近は仏教がおとぎ話のように感じるようになり、易行と言われる浄土真宗についても、本当に信じることができる方がいるのだろうか、苦行とさえ思ってしまいます。せっかくの心の拠り所が無くなってしまうのはとても辛いことです。僧侶になられた方はどのように信心を深めていったのでしょうか。

2022年10月10日 21:03

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

理知的で明晰な説示のある仏教を求める

禅にも真宗にも理知的な説法をされる方がおられます。
(# ゚Д゚)「オレは絵空事など信じぬ!地獄も極楽も死後の世界などあるものか!」という人には禅のような理知的な教えを学ぶほうがしっくりくるかもしれません。地獄も極楽も人の心のこと。心が生み出す作用。あの世、死後の世界も故人、先人がたが亡くなられた後、今も継続しているこの生きた死後の世界、生死を超えた世界。極楽も浄土も他方・遠方に求めるのではなく、そこを思い描く心そのものをみつめることがなければ、豪邸に処すれど心が迷い苦しみの曇りのゆえに段ボールハウスとかわらない。亡くなられたご家族に対してもどこか憂いが続いていくそういう心の迷い、苦しみ、曇りの心理こそ、極楽や浄土からほど遠い心ではないでしょうか。
仏教がおとぎ話や絵空事のように感じてしまうのも「感性」の問題でもあるのです。サンタさんなんて居ないと言っても作用はある。
医療でたとえるならば、人は今のあなたと同じようにお苦しい時は最も柔らかで優しいクッションのような接し方を必要とするものです。具体的に細かく言ったり、手術中の画像を見せれば、それでショックでますます心が病んでしまう人だって多いからです。だからこそ、ソフトに配慮してそれぞれの心理状態に合わせた心の優しい対処療法というものが必要にもなるのでしょう。
絵空事ではなく象徴的な説示、シンボリックな行いで感じ取れる人はそれでと感じ取れるものなのです。名画の繊細なタッチがわかる人には説明不要で解釈不要、説明不要で良いのです。
ですが、それではピンと来ないという人は禅を求めることです。もちろん、禅にもいろいろありますから、ここまではっきり言ってくれるのであれば、これが良いというものを求めることです。
地獄も極楽もどこにあるのか。今のあなたの心が地獄なら菩提心をおこす。ご家族との悲しい別れがあり本当にお辛いかったことでしょう。救いを求めても仏の教えすら信じられなくなるぐらいに心が疲弊して迷っておられるのでしょう。
地獄や極楽を求め、描き、ああではないか、こうではないかと思い、憂うのはどこの誰のアタマの中なのかといえば、みなこの自己。私が、この自分が、自己がそれをそのように思う。だからこそ、この自分の心が暗く、明らかならざれば全て暗い。求めるべき極楽はあなたがあなたの心を浄土と言えるような心に導く発心。発菩提心なのです。

2022年10月11日 9:31
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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

口先で南無阿弥陀仏と言えば良い

江戸時代の有名な念仏僧侶の徳本上人が、「口先で南無阿弥陀仏といえばよい 心なくして申せるものか」と言われたそうです。
たとえ疑いながらの口先だけの念仏でも、信心が全く無いなら口に出ないはず。
裏を返せば、口先だけでも南無阿弥陀仏が出るなら信心がどこかにある。ならば救われるはず。
経典に出てくる阿弥陀仏や極楽浄土なんて、おとぎ話みたいだな、でもまぁ一応念仏を唱えておくか。万が一救われたらラッキーだしな。
くらいの軽い気持ちでも良いのです。
もちろん、戒・定・慧の三学という仏教の基礎を実践できれば、そこにはおとぎ話の無い真理・悟りがあるでしょう。
浄土の教えは、戒・定・慧を実践できない煩悩まみれの凡夫でも救われるおとぎ話です。
しかし、みんなもれなく救われたらいいなという仏教の慈悲に共感できるなら、おとぎ話も無意味ではないでしょう。
また、念仏という修行は脳のリズム運動でもあるので、セロトニン神経のはたらきを整える効果があるかもしれません。

2022年10月11日 12:50
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
ご回答いただきありがとうございました。
禅の生き方や所作はとても美しいと感じております。
自己紹介を拝見しました。「仏教を学ぶことの本質は仏教の学問をすることではなく、自分自身の作用を学ぶことなのです。」いまは仏教本を読んだり法話を聞いていますが、なんとなく分かる気がします。

願誉 浄史 様
とても気持ちが軽くなるご回答をいただきありがとうございました。
100%の信心がなければ仏さまに救っていただけないような感覚でいたかも知れません。今までどおり、仏教本を読んだり法話を聞いていきたいと思います。いつの日か仏教の基礎を実践できたら嬉しいです。

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