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死、別れ、時が流れていくことが怖い

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死、時間が過ぎゆくこと、全てのものとやがて別れなければならないことが怖くてたまりません。

立て続けに可愛がっていた愛猫を亡くしました。
二匹とも老齢で死ぬことは当たり前の年齢、特に苦しむこともなく穏やかな最後でした。

ペットロスなんだと思いますが、猫達がいなくなった哀しみや寂しさの他に漠然とした不安、恐れが湧き上がりしんどいです。

今は一緒に嘆き哀しんでいる家族ともやがて別れがくる、こうしている間も1秒1秒それまでの時間が短くなっている。

その次の別れの瞬間に今のことを思い返しているような、あっという間に来るべき時が来てしまうような気がしていてとても怖いです。

気分転換に外に出ても葬儀場やお墓の看板ばかりが目につき、世界が裏返ってしまったような気になります。

これまでは遠く空の上にそういうものがあって、今生きている世界はしっかり地にあるイメージだったのが、海の上にある小さな小島にいて、すぐ足元に深くて暗い海の底が広がっている、自分が生きている世界はとても心許ないものですぐに溺れてしまうのではないかというような気持ちになります。

在宅勤務でずっとつきっきりだった為か、死を真正面から受け止めすぎた気がしています。

どこに行こうが逃れられないことに気付いてしまいました。

昔の偉いお坊さんが、死ぬ間際に一筆と頼まれた時に死にたくないと書かれたという話を見かけ、偉いお坊さんでも怖いのかとどうしていいか分かりません。

自分が死ぬ前の晩はどんな気持ちか、親が死ぬ前の晩はと、そんなことばかり考えてしまいます。

さっきコンビニへ行ったことも10年前の旅行のことも思い出すとどちらも一緒で、全部の物事がどんどん過ぎ去っていくような、時間が圧縮されてしまってあっという間に全てが終わるような気持ちになってしまいます。
過去が全部一かたまりになっているというか…。
時間がすごいスピードで自分を削り取って過去のかたまりに押し込めていくような感覚があります。
とても怖いです。

仕方ないことを考えるのをやめたいです。
どうしたら今のことだけ考えられるようになるでしょうか。

偉いお坊さんでも死にたくないのに私のような人間が怖くなくなるなんてありえるのでしょうか。

どうしてこんなに寂しく悲しく辛い死や別れが避けられないこととして存在しているのでしょうか。

2022年11月3日 10:12

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それが実は苦の面だけはないとを明らかにする為にこそ死はある

死はまず、死という一大事実であって、ホントはそこに負の思いがありません。死に対してあれこれ思うことは負の思いを後から付け足している心理なのです。
分かれと言っても、ご家族様でも「ちょっと買い物行ってくるね」というだけでお別れ状態です。トイレに行くときだってみんな世界中のすべての人とサヨウナラをしてお腹の中の頂いたお命様にもサヨウナラを致しますが、それが出来なかったらベンピちゃんで不健康です。
ペットちゃんとのお別れは悲しいですね。ですが、別れというのはその瞬間だけでその後は死後の関わりということが始まるのです。偉人や聖人君子が死後も世界に影響を与えるように、あなたもその猫ちゃんとの出会いをより良い心へとあなた自身を導かなければなりません。
家族の別れも分かれることばかり意識していれば出会いながら出会っているとは言えないでしょう。
顔を洗う際に流れる水をみているのか。流れていく溝を見ているのか。授かる御水を重視するかで世界は映り方が変わります。
無常とは、あなたのこの世界に対する思い方や考え方だって無常だからこそ、最新のより良いバージョンに古臭い煩悩もアップデートする必要があるのです。
死を真正面から受け入れるということは、死ぬ瞬間まで死の始まることを考えずに「生きろ!」ということです。
昔の偉いお坊さん「仙厓」が、死ぬ際に死にたくないと書いたというのは死が怖いんじゃァなくて「(*´Д`)あー死にたくねぇなぁ」と笑っている余裕かましている境地でござる。
ひいお(じぃ・ばぁ)ちゃんが亡くなったときのことを知らんでしょう。
過去とは今の記憶。
未来は今の想像。
今は掴むものではなくライドオン、乗りこなすものである。
サーフィンの達人たちの動画でも見てごらん。🏄
今というLIVE、今というひと波を、乗るのが法(のり)です。
寂しく悲しいなら、その波に抗うのではなく、親しむことです。それを死と同じように悪いものだとあなたは考えているから反発・抵抗・抗いの精神が生まれて現実がそうではないことに苦しんでいるのですよ。
辛い死や別れも完全なる自由への開放でもあるのです。
釈尊は生きながらに万事が安らかになる涅槃を会得され、死にゆく時もただ安らかに死んでいかれたのです。「涅槃」。それは絵空事ではなくあなたがその真意をホントに求めれば会得できるのです。嘆くよりも真剣に求めましょう。

2022年11月4日 14:20
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
回答を読んだ瞬間気持ちがスッとしました。

死ぬ瞬間まで生きることが死と向き合うこと、確かにそうですね。
偉いお坊さんの話もなんだか面白く受け止めてしまいました。
どんなにすごい人でも怯えながら死んでいくなんて…と思っていましたが全然違いますね笑
まだ怖くなったり漠然と不安になったりの繰り返しで、まさに波が寄せては返すようです。
乗りこなしていきたいものですね。
何度もこちらの回答を読ませていただこうと思います。
捉え方ひとつというか、悪いことだとばかり思わず今を見ていこうと思います。
(今はお風呂から上がっていい気分です!)
波が来たら乗っかってやります。

本当に良い回答をありがとうございました。

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