死ぬために死恐怖症を治したい
お世話になっております。
久しぶりに相談します。
突然ですが死にたいです。
でも怖くて踏み出せません。
人間の生理的なものなので「死にたくない」と思うのは仕方のないこととわかっていますが
『今この曲がり角で刃物を持っている人に遭遇したら刺されるな』とか
『地震でマンションの上の階が落ちてきたらつぶされて死ぬな』とか
『通勤ですれ違ってる人に何かをしてしまって恨まれて殺されてしまうな』とか
常にありもしない妄想で不安になって死ぬのが怖いです。
これを死恐怖症と呼ぶらしいのですが、この症状なのかなと最近思っております。
なぜ死にたいかというと人生に疲れたというか。
私の様子を聞くと、きっと多くの人が「え、そんなことで!」と驚かれるのでしょうが
もう、しんどいんで若いうちに人生終わらせたいです。
プライドが高いせいか、思うように人生が進まず『なぜ?』と
劣等感にさいなまれることが多くしんどいです。
知り合いに『今の状態がメリットがあるから無意識にそのように生きている。
そのメリットを享受しているのにデメリットを嘆くのはおかしい』と指摘され、
なんだかもう難しいことは考えたくないし、
死んで困ることはないのでもう生きてる意味もないかなと漠然に考えてます。
そんな時に『死にたくない』を乗り越えれればいつでも死ねるなとふと思いまして。
死ぬための方法はネットを漁ればいくらでも出てきますが、
死を克服するための方法はほとんど出てきません。
死を受け入れる、もしくはその恐怖を克服する方法は何かありませんか?
教えていただけますと幸いです。
人生において何も計画通りに生きてこれなかった残念な30歳。 人生こんなはずじゃなかった、ともがきながら、自分が納得のいく死に方を探しながら生きてます。 比較的裕福な家庭で何不自由なく暮らしてきました。 死にたいけど、死ぬ勇気がなくて死ねない死に損ないで、生きる希望がありません。 死ぬ勇気の入手の仕方、ご存知の方、教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの思いを受け止めさせて頂きます
拝読させて頂きました。
あなたが死を受け入れる・死を克服する方法を知りたいこと、もう死にたいと思っておられること、死にたくないと思っておられることを読ませて頂きました。あなたのお気持ちとてもわかる様に感じます。あなたのお気持ちを受け止めさせて頂きたいと思います。
あなたが死にたいと思ってしまうのも死にたくないと思ってしまうのも当然かと思います。生きていくことはとても大変なことですし、いっそのこと死んでしまいたいと願うことも度々あるでしょう。そして同時に死ぬのが怖いという感情も湧き上がってくるのもとてもわかります。死恐怖症という病があるのかどうか私は分からないですけれどもその様な心の在り様はわかる様に感じます。
私も以前サラリーマンだった頃にはほぼ毎日の様に考えていました。電車や車を見るといつも自分の死を予感したり、ある時には向かっていってしまうことさえありましたし、恐れおののくこともありました。それは今でも多少私の心の中であります。ですからあなただけだ感じることでもないと思います。
死を克服することはなかなか大変なことです。私達は生きることを与えられ定められていますからやはり死は怖いです。
その様な私達のことを仏様や神様やご先祖様はいつも見守っていて下さいます。私達が悪戦苦闘して生きているのを見守り支えて下さっています。
そして私達の命が終わる時つまり死ぬ時には必ず仏様や神様が私達をお導きなさって下さいます、先に往かれた親しい方々やご先祖様が私達を優しくお迎えなさって下さいます。仏様のもとにてご先祖様や親しい方々と再会なさり共に喜び合い分かち合い安心して成仏させて頂くことができるのです。
ですから死は決して終わりではありませんし、私達の心も無くなるわけではありません、一切消えてしまうわけではありません、死は一通過点です。
ですから死のその後もあるのです、どうかあなたが与えられた命を生きて下さいね。そして必ず訪れる死をしっかりと受け止めて下さい、どうかご安心下さいね。
そして仏様にお導き下さいます様にお救い下さいます様にと心からお祈りなさって下さいね。迷い悩み恐れる私達を仏様や神様は必ずお救い下さいます。
あなたが与えられ恵まれた命を健やかに生き抜いていかれます様に仏様や神様に救われます様に、導かれます様に切に仏様や神様に祈っています。至心合掌 南無阿弥陀仏
死を考えるには「今」と「生きる」から
『死にたくない』を乗り越える、死を受け入れる、もしくはその恐怖を克服する方法は何かないか…
そう考えが至る、ゆかりさんはとても聡明な方なのだと思いました。
個人的な考えですが、「死にたい」は「=生きたい」だと思っています。もしくは「今の状況から逃げたい」かなと。
仏教でも「生と死」は切っても切れない関係で、死を考えるには生きることも同時に考えなければいけません。
逆説的な答えで申し訳ないのですが、生きる意味が分からないのなら、きっと死ぬ意味も見出せていないから「死にたくない」と思うのでしょう。
自分という存在意義が分からないから何か意味のある(かもしれない)ものに逃げたいのかもしれません。
他人や周りに自分の存在意義を求めていませんか?
自分の生も死も、自分のものです。存在意義を他人に求めても、いつまでも埋まりません。
生死を見つめると同時に、今を見つめてみてはどうでしょう?
息をしている、体がそこにある。温かいものを食べている。柔らかいものを触っている。
今を感じる。それだけで、生を見つめることができます。
本を読んだり、瞑想をしたり、貴女だけの死生観を見つけてみてくださいね。
業による輪廻の構造を深く知る
ゆかりさま
死を知ると、自死はまずできなくなるかとは存じます。(もちろん絶対にとは言えませんが。)
なぜなら業による輪廻の構造を深く知ることになるからです。
そして、できるだけ業をより良くに調えなければならないことの理由が分かるようになるのであります。
業をより良くに調えていくための教えが仏教です。是非、死を知ることから、仏教を学んで実践していって頂けましたらと存じます。
下記が参考になるかと存じます。
「チベットの生と死の書」ソギャル・リンポチェ(講談社文庫)
「ゲルク派版 チベット死者の書」ロサン・ガンワン、平岡宏一先生(学研文庫)
合掌