浄土教徒は生きているうちは何をすべきか
ネット掲示板では浄土系宗派を「自殺宗」などと揶揄する輩もいます。
僕も浄土教の教えを、まったく仏教を知らない友人に話したら、「じゃあ早く死んだらいいってことになるじゃん」と言われ、有効な反論ができませんでした。
浄土教徒は生きている間に何を大切にして何を楽しみにして生きたらいいのでしょうか?
往生(=死)を待つだけが浄土教の肝ではないよ、生きている間にこんな良いことがあるんだよ、念仏以外に生きている間にこんな事をすべきだよ、だから早く死ねばいいというわけじゃないんだよという答えがありましたら教えてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教徒として
念仏を唱えて功徳を積む。
(1回の念仏で往生は確定しているが、さらに功徳を積んでおけば極楽に行ってから悟るのが早くなるはず。)
念仏以外の善行為や修行もできるならやって、功徳を積む。
(ただし、念仏以外の修行をしなくても念仏だけで往生は確定していることをお忘れなく。)
他人に仏教や浄土について教える。
他人に親切にする。
あとは、日常生活を楽しみましょう。
追記
座禅をやってもやらなくても、念仏すれば往生できます。
だから座禅をやってもいいと思いますよ。
もしも、念仏や五種正行以外の修行が禁止なら、戒を守ることもお布施も忍辱(怒らない)もダメと言わなきゃならないですからね。
また、座禅を通じて自分の煩悩に気付けば、「機の深心」(こんな愚かな自分だから阿弥陀仏の本願に頼るしかないのだ)に繋がるかもしれません。
あと、ご存じだと思ってあえて触れませんでしたが、法然上人の御法語に「生きれば念仏の功徳が積もり、死ねば浄土に往生できるから、思い煩う必要がなく、生死ともにわずらいなし」という内容があります。検索してみてください。
生きているうちに頑張ってダメでもセーフティネット
本来の仏教は、自力で悟る、悟れなくても修行や善行為でよい来世を目指す、というものでした。
のちに浄土教が現れて、それは修行や善行為が何もできなくても、仏を念じるだけでも善行為で、それで浄土に行けるよ、という死後のセーフティネットでした。それ自体は善行為なので、業の法則としてもあり得ます。
そこで日本の浄土宗は念仏行に特化しよう、と、浄土真宗はさらに進んで、念仏さえ、仏への信心さえ、仏のほうから来るんじゃね? 任せればいいんじゃね?というところまできました。
あとは、来世の心配をせず、これまで通り日常生活を送ればいいのです。悪いことすれば反省、良いことすれば皆様のおかげ、で、仲良く、協力し合って生きて死ねばいいのです。鎌倉時代は生活するだけで精一杯でしたからそれで十分でした。
現代人は、時間にも生活にも余裕がありますね。それなら、セーフティネットよりは少し頑張って、善行為や修行にも挑戦すべきでしょう。悟るためではなくて、などと自主規制せず、できれば今生で悟るまで頑張って、無理なら来世は浄土でいいのです。本来、そうやってできてきた教えです。
今の真宗はあべこべで、親鸞が修行も善行為もできない蛇蝎のごとき我らと言ったのだから、修行も善行為もしてはいけません。死ぬまでぼーっと待ってなさい、あるいは、世間的な楽しいことだけしていなさい、になってます。アタオカでしょ?
社会にセーフティネットがあるからと言ってだらだら遊んでいてはカッコ悪いように、宗教にもセーフティネットはありますが、余力があれば高みに挑戦すべきだと思います。自力でダメでも大丈夫、なだけで、大丈夫だからダメ人間でいなさいなんて、変でしょう?
質問者からのお礼
>願誉浄史さま
浄土宗らしいシンプルでわかりやすい答えをありがとうございます。
浄土真宗だと念仏以外の善行や修行もできるならやれとは言わない(むしろ否定的)だけど、浄土宗は真宗よりも通仏教的な部分を多分に残していますね。
坐禅の真似事とかやってもいいですかね? それで悟りを求めるわけではなくて単に気分を落ち着かせる程度の、本当に真似事ですが。
>藤本晃さま
回答ありがとうございます。
著書「浄土真宗は仏教なのか」を読んだことがありますので、その著者さまから回答いただけて驚きました。ちなみに僕は浄土真宗から浄土宗に改宗しましたが、本願寺の帰敬式で授かった法名は藤本さまと同じ釈慈照です。
その点が…というわけではありませんが、僕も藤本さまと同じく今の真宗にいろいろ疑問を感じての改宗でした。