執着を捨てたら、努力できなくなる?
最近仏教に興味を持ち始め、勉強しています。
仏教における大事な考えとして「執着を捨てる」事があると思います。
確かに、その理屈には納得できます。
しかし一方で、執着を捨ててしまえば、「何かに向けて努力できなくなってしまうのでは」と疑問に思いました。
私は今、資格取得に向けて勉強しています。それは、仕事をする上でもっとレベルアップしたい、という思いからです。
しかしこの「資格取得したい」思いもまた執着でしょうか。
目標という執着をも捨ててしまえば、人生において何かに向けて頑張る事ができなくなってしまいます。
執着と目標、どのように考えれば両立しうるのでしょうか。
もしくは、目標・努力という執着を捨てよ、というのが仏教の正しい教えなのでしょうか。
ご回答よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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不断煩悩得涅槃
質問読ませていただきました。あなたの仰る通り執着を捨てるべきと考える教えが仏教にはあります。それは人間は執着を捨てられないと言う真理があるからこそ言われる事なのです。
執着は言い換えれば煩悩と言うことです。努力や向上心は間違いなく煩悩であり執着です。
例えば何かが欲しいと思ったとします。それは物欲に限らず資格が欲しいとかも含まれますよね。物欲であれば、それを買うお金が欲しくなり、お金を自分で稼げなければ極端な話として泥棒や強盗もしてしまうかも知れません。つまり、執着が過ぎれば間違えた道に進みかねないと言うことになります。資格を取ると言うポジティブな思考だとしても、何が何でもその資格を取るために不正行為を行ってしまうこともある訳です。
そう言う理屈をお釈迦さまは良く判っているからこそ執着を捨てるべきと教えられるのです。つまり、そもそも煩悩や執着があり過ぎるのが人間だから少しはそれを減らしなさいと言う意味で仰る訳です。
浄土真宗の親鸞聖人は「不断煩悩得涅槃」とおっしゃいます。煩悩を断たずに涅槃を得ると言う意味です。
もしも、執着や煩悩が本当に無ければ生きていけないのが人間なのです。何故なら食欲や睡眠欲が無い人間などいないのです。だからこそ、執着や煩悩が過ぎないようにと言う意味で捨てなさいと教えています。
欲と意欲
初期仏教では煩悩の欲ragaと善悪両方に当てはまる意欲chandaを使い分けています。
欲はもちろん欲で、怒りと同じく仏教では心の汚れと見ます。が、特に在家には、怒りはダメですが、欲は倫理道徳を踏み外さない範囲で楽しむことは良し、というか、そういう生き方だと、見ています。出家には性行為は一切ダメですが、在家には、夫婦間以外の性行為は倫理を踏み外していませんか、自分でチェックしてくださいというくらいのものです。
さらに、意欲は、上手に用いてください、となっています。意欲とは「やる気」です。他者のためになる布施行や自分を成長させるための勉強や生活の糧を得るための仕事など、ルーティンになれば大丈夫ですが、最初は、あるいはやりたくなくなったときは、まず「やる気」を出して頑張る「精進する」ことが大事です。(精進も善に向かう正精進と悪に向かう邪精進とどちらもあり得ます。)
意欲を出して精進して自分が成長すればするほど、無理なく自然に善行為ができるようになります。それでも意欲や精進がなくなったわけではなく、あるのが当たり前になっただけです。
解脱すると、体が滅びて死ぬ(涅槃に入る)までは、無気力なのではなく、ただ他者のために何ができるかなといつも世間を慈悲で見ているような目覚めた状態になります。
というわけで自分の成長のために意欲を出して正精進してください。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
執着とは決して捨てることができないものであり、だからこそ過度にとらわれないことが大事なのだと納得しました。
常に自分の執着に自覚的になり、日々精進していこうと思います。