仏教ではこれをどう答えますか?
例えば目の前で罪のない大切な人がナイフや銃をつきつけられ殺されようとするときどうしたらいいのですか?
自分や大切な人の命を守るため対象を殺すことは正当化できるものなのですか?
そのようなことが起きてしまうこと自体悲しいことですが、
仏教ではどのように落とし所をつけていますか。
自分がどうあるかを決めることが答えでしょうか。それを乗り越えるためのなにかが仏教にあるのでしょうか。
これという回答がなければ
そのヒントになる本などあれば教えて欲しいです。
救われたいとも思えない、全て自分の責任だと思ってしまう人を救いたい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
不殺生ということ
難しい質問ですね。経典から紐解いてみましょう。
『梵網経』は、十重四十八軽戒の筆頭に殺戒(殺してはいけない)を出し、以下のように定めています。「仏は仰った、「仏子よ、自ら殺し、人に教えて殺させ、方便して殺すことを讃歎し、[殺を]なすのを見て随喜し、乃至、呪い殺したならば、殺の因・殺の縁・殺の法・殺の業が存在する。乃至、一切の命ある者は、ことさらに殺してはならない。菩薩はまさに常住の慈悲心・孝順心を起こし、方便して衆生を救護しなさい。そうある[べきな]のに、自ら心をほしいままにし、意を快くして殺生したならば、これは菩薩の波羅夷罪である」と」
『梵網経』には『瑜伽論』菩薩地に説くような、慈悲殺生を許諾する明確な文言はありません。一般的には仏教徒は「不殺生」を貫くべきであり、菩薩であるならば、その対象は人のみに限らず「一切の命ある者」でなければならないと。『梵網経』にはそう説かれているます。
つまり命と言うものは殺されるべきものではなく殺すべきものではない。何故なら、命は尊いものであるからです。
しかし、私たち人間は殺生をせずには生きていけないのです。私たちは人を殺すことはないまでも、あらゆる動植物のいのちを頂いて生きています。私たちが「いただきます」と言うのは料理を作ってくれた人に言うよりもその食材に対して敬意を持って有り難くいただくのが本音でなければならないのです。
まずは命は尊いものだと言うことを常に念頭においていただきたいと思います。
お釈迦さまがお産まれになってすぐに仰った「天上天下唯我独尊」はこの世の全てのいのちは尊いと言う意味です。合掌
罪のない?
「罪のない」はとりあえずの前提でしょうね。
仏教では、いきなりナイフや銃を突きつけられることにも、現世でなければ前世の因縁、業があったのでしょう、と軽く言います。業は善も悪も結果を出すまではずっと溜まっているので、「罪のない」状態は厳密にはないと、仏教では見ています。
答えもあります。
逃げろ。逃げられなければ諦めろ。です。
反撃とか正当防衛は、初期仏教では新たな悪業です。仏教的に正しい百点の答えは、逃げるか殺されるか、です。
これは悟りを開いた人には完璧にできます。
まだ悟りを開いていない、仏教を学んで実践している最中の人には、いろいろな行動とそれに伴う色々な部分点があるでしょう。
逃げ方も、ただ必死に走って逃げるのもよし。相手と友達のように慈悲の心で話し合い、相手の害意を削いで、むしろ仲良くなれば、百点以上かも。
逃げきれないけど黙って殺されるのも嫌で、次は相手の攻撃を避けようとする。その途中にうっかり相手に被害が及んだとか。これは自分が殺されるよりは相手が傷ついたほうがましだなどととっさの判断が絡みますので、しかも業は一瞬ごとに善意や悪意に、あるいは無我夢中で自分では判断できない状態に変わるので、計算しにくいです。
仏教の答えはこんな感じで、部分点が一点から九十九店までいろいろあるでしょう。
ここまでは想定問答、模擬試験です。本番の試験で、実際にこのようなシチュエーションに遭遇したら、各人がどのような答えを出すかは、また別の話です。模試では満点でも本番では緊張してうまく行かない、などということもよくありますので。
法然上人の場合
浄土宗を開いた法然上人は武士の出身で、幼い頃に家に敵が夜襲をかけてきて、その戦いにより父親が殺されました。
その父親の遺言は、仇討ちはせずに出家しろという内容でした。
さて、その後、有名な僧侶となった法然上人にはさまざまな人が弟子入りしました。
熊谷直実という武士もその一人。熊谷さんは源平の戦いで、まだ十代の敵(我が子と同年代の若武者)を殺したことを悔やみ、どんな罪人でも救われる浄土教に救いを求めました。
殺生をせずに仏道に入った法然上人、殺生をしてしまった後に仏道に入った熊谷入道。
阿弥陀仏はどちらも救って下さいます。
だから、殺生を貫き犯人を許した人も、犯人を許せずに犯人を殺してしまった人も、どちらも救われるのが仏教なのです。
質問者からのお礼
なるほど。ご回答ありがとうございます。
不殺生は前提としての質問でしたが、
動物におきかえればわかりやすいですね。
尊い「命をいただく」ということが。
しかし動物も殺される前に牙を向き、人間を襲い殺すことが出来ますね。そこには正義も悪意も存在せず
生への執着しかありません。
実存的な生の権利の奪い合いの中では、この世は弱肉強食なのですね。