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魂(アートマン)は存在する?

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仏教の本を読んでいると、「仏教は魂(アートマン)の存在を否定している」という趣旨の記述を見かけます。
しかし、そうだとすると、輪廻転成する主体は一体何なんでしょう。輪廻転成の考えと両立するのでしょうか。

2023年6月25日 20:34

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

スマナサーラ長老の

『無我の見方』という本に分かりやすく書いてあります。
 私の理解で言うと、釈尊は「我が存在するか?」という問い自体が間違いだと。我が何か分かってもいないのに、それをあると前提してあるのか?ないのか?と問うても答えは出ない、まず、我とは何かを探求せよ、ということです。
 初期仏教の経典から解釈すると、我ではなく「『私がいる』という見解」がある、しかし調べてみると、「私がいる」と感じているその体も、感じたり考えたり行動したりするための認識作用も、いつもころころ変わって変わっていくけど、そのどれにも「我」は見当たらない、それでもこの体と認識作用の連続が連続しているので、その意味で、我が何であれ、何ものも我ではない、とは言える。
 しかもその心身複合体が死ぬとき、体は捨てるけど、認識作用は終わらない、で、また何か体を作って生きている。
 しかも過去を思い出してみると、何かの体で死んで、慌てて精子と卵子がくっついたタイミングで認識作用だけそこに飛び込んで、必死で体を作って人間になった。
 そういう意味で、輪廻の主体とか輪廻する我はないけど、心の流れが、悟るまでは、ずっと続いていく、それを輪廻という、ということのようです。

2023年6月26日 8:00
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本仏教、浄土真宗ということで活動しております。 先祖供養とか功徳回向とか、みんなお釈迦様が最初からおっしゃっていたって、ご存知でしたか。私たちも謙虚に堂々と日本仏教しましょう。

我と無我 エゴ我と真我

そもそも「言葉」というものはある一点を指してその内容を説明しようとする道具ですから、時にズレや誤解、誤った理解・解釈も生まれるものです。
むしろ世の中全体が同じ言葉一つでも無数の解釈・ズレ・誤解があるものですよね。
アートマンという言葉も同じでしょう。魂、我、真我、いろいろな解釈が存在しますし、様々な推測や解釈が存在するんじゃないでしょうか。
あるいは輪廻、輪廻転生、輪廻転「成」という言葉はあまり使われることはないと思います。このようにちょっとした言葉でも原点は言葉ではなくて、そのコトバが差し示さんとするその内容・中身。
だからこそ、本質の追及が大事であると思います。
本質の追及は真理の追究につながります。
解釈は解釈。解釈は真理ではないからです。
真理というものは解釈ではなく人類共通、万人共通の事実であり大真実です。
仏教とは特殊な仏教思想を説くものではなく、仏の説かれた真理は解釈が数多あれどももともとは一つを指すものであり、後世の解釈や論は後の人たちの「こうではないか論」にすぎません。
よって現代人による諸説ある理論・解釈・論というものは、よくよく注意を要するものです。それは仏教ではなく後から生まれた論。
アートマンという概念、言葉の指すものが何であるかを一つ一つ分けてそこを基準に追及していくべきです。あなたの言われるように「魂」という意味で考えるのであれば、永続する魂の存在を否定するとしても、作用としての影響力は永続するからこそお釈迦様の教えも現代まで存続しているのです。
輪廻、輪廻転生という概念も来世に生まれ変わるというような論になりますと、誤解を生む話になりましょうが、この世界が常に転変、変化、同じような作用を繰り返しループしている、そして、前の状態を離れて今は今の状態として転じあらたに生まれかわっているという面からみれば、別に間違った道理でもありません。
よって、ないことや空想をあるかのごとくに妄想するのであれば、輪廻論も人々を惑わす論になりましょう。
理知的に説く禅門風に輪廻を説くならば、輪廻とは事実に住さない様子。今ある事実にあれこれと自分流の考えをつけ足すことはみな輪廻といえましょう。
覚者になれば輪廻から解き放たれるというのであれば、心が他方に向かわない、今の事実に住することで、輪廻も転生もない。あるいは転生し続けの自己ともいえましょう。

2023年6月26日 15:23
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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