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49日後の魂の捉え方について

回答数回答 3
有り難し有り難し 17

私は2週間前に祖父を亡くしました。
とてもつらく、主に後悔と自責の念に押し潰されそうな日々を過ごしていましたが、残された父と支え合い、友人にも支えてもらい、葬儀の際にはお寺の住職さんとも色々なお話をさせていただき、なんとか今日という日を過ごしている次第です。

49日を迎えるまでの間、故人はまだ私たち家族のそばにいてくれているという話を聞きました。
実際、祖父が何度か夢に出てきてくれたり、父も少し不思議な体験をしたりなど、近くにいてくれてるのだなと感じる瞬間があります。

ですが49日を迎えた後、亡くなった人が天国へ行きこの世界を離れてしまったら、もうそこで本当にお別れになってしまうのかと思うと悲しくて仕方がありません。
仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたり、心の中で問いかけたり、その度にその人はいつも残された人々を見守っていてくれてる、という話は聞きますが、それは成仏が出来た後でもそうなのか、魂というものについてどういった考え方を持てばいいのかわからず不安になっています。

ぜひ、ご意見を頂ければ幸いです。

2023年10月29日 19:47

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

先ずは

 ななさん、祖父様の涅槃に哀悼の意を示します。葬儀を務めたお寺さんと色々話したのなら、分からないことは先ずはそのお寺さんに聞きに行きましょう。それで意味の分からない用語はここで質問したら回答いたします。折角、仲良くできそうなお寺さんなのですから、相手も待っていると思います。

2023年10月29日 21:28
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有り難し
おきもち

目指せ!となりのお坊さん あなたの小さな悩み相談お答えします  私があなたの悩みを解決するのではありません あなたの悩みを解決するお手伝いを私がするのです ちょい悪坊主を目指しています。尊敬する人は一休さん。
ここだけの話し  どんな些細な質問でも回答します! ・私の目指す僧侶は一休さんのようなちょい悪坊主です。時には常識にとらわれずとんでもないことを言いますが、しっかり受け止めて下さい。私もしっかりとあなたの質問を受け止めたいと思います。 ・先ずは30分からで、システムに慣れたら時間を延ばしたいと思います。

お別れではないですよ。

なな様
寂しいですよね。
四十九日は一つの区切り。
おじい様も仏の道へと歩まれます。
心残りなく上がれますように、区切りにしてください。

肉体的なお別れかもしれませんが、これからもお祖父様との 対話 は続きます。
命日や周忌法要を忘れ去った時はお別れかもしれませんね。

お送りしたあと、1年, 3(2)年,7年...33,(50)年...と法要するのは、長い旅路へのお力添えをなさるのです。
日々、蝋燭を灯し、お線香を上げ、お供えして、手を合せて。これも対話です。

他でも書きましたが、信者さんの言葉を借りれば、「生前よりもお話している」とのこと。
いっぱい対話を続けてください。そしてお祖父様の教えを、あなたの家に代々伝わる考え方をお受け継ぎください。

合掌

2023年10月29日 21:03
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有り難し
おきもち

個別相談可能
勤め人時代はマスコミ、医療、コンサル(経営・アセット)。都内の大学で週1コマ担当。
医業経営コンサルタント、宅地建物取引士、大学講師 お急ぎの方はお電話も可能です。

内なる天国、極楽、大宝楼閣に祀る。

天国や極楽や浄土を外の世界に思い描くよりは、内なる心、わが身心の中にこそ見い出しなさいよというのが仏の教えです。
そもそも天国や浄土を思い描くのもこの自分、わたし、わが身でしょう。
愛する人、おじい様が亡くなられた。そこで仏の導きの元、葬儀をする。
葬儀をする=仏の戒を授けるという事は、あなたの中でおじい様を生前・死後も含めて、誰も傷つけることのない存在になっていただくこと。そして、すべての人を救いへと導く清らかな存在として敬い、お祀りをすることなのです。
それが仏弟子になられるという事です。
故人様が戒名を授かったという事はそのように一切を傷つけることもなく、一切を救いへと導かれる尊い仏弟子さまになられたのです。
仏弟子になられるという事は天国に行くとか、どこか遠い世界に行ってしまう事ではありませんよ。
それは同時にあなたの内なる浄土、大宝楼閣、仏の世界へとお祀りをすることでもあるのです。つまり死者、亡くなられた方、愛する家族をして内なる仏さまとして「これからも見守ってください、お導きください」という気持ちをもって一生、ともに歩んでいくということ。そのように自身の中の最高の汚れの無い心へとおまつりをするという事。それが故人様を弔うという事なのです。ですからご安心ください。そういう認識をお持ちでない人が世の中に多いからこそ、人は死んだら遠い世界へ行ってしまうという西洋の思想と混同・誤解をされてしまっている人が多いうというだけです。別に49日でお別れではなく、むしろ49日をもって関係が生前の関係から、今後も一生共に歩んでいける関係、一生離れ離れになることのない関わりへと変わることなのです。
49日をもって生まれ変わるという事はあなたの中に宿る、今後も関わりが続いていくというめでたいことなのです。
愛する人が生前の肉体の姿を離れて、一生亡くなることも失われることもない尊い存在へと生まれ変わるという事。むしろ、そのようにおまつりをするという事が仏教の総儀式というものです。それをしませんと、人は唯物主義に堕してしまい「人は死んだら終わりだ」「人は死んだら物質と同じだ」という危険で空虚な思想に陥ってしまう事となり、亡くなられた人は誰も敬わないようになってしまいます。そういう考えを持っている人は死者を軽視します。亡き人を敬うという事は生きていた人を永遠に敬い、尊重することです。

2023年11月1日 9:16
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

剛 士 さま
ありがとうございます。
忘れてしまった時が本当のお別れ、その通りだと思います。
祖父が仏様の道をこれから頑張って歩み続けるのかと思うと、私も頑張らなくてはと背筋が伸びるようなそんな気持ちになりますね。

大鐵 さま
ありがとうございます。
そのお寺さんは我が家が長くお世話になっているところでして、葬儀の際に「何かわからないことがあれば聞きに来てください」と言って頂いたのですが、それはあくまで法事などの際に質問をさせていただくという意味だと思っていたのですが、こちらからお寺に出向いてお話させていただくということが可能なのでしょうか?

丹下 覚元 さま
天国という場所をどこか遠くの世界ではなく自分の心に思い描く、私ひとりでは到底たどり着けなかった考えにまさに目からウロコです。
肉体を手放したことで誰からも傷つけられず、誰のことも傷つけず、誰からも奪われない存在になれた、とても素晴らしい考えだと思いました。
自分の心に故人が宿ることでこの先も共に生きていけるのだと、そう思える大きな一歩になりました。
ありがとうございます。

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