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伝法灌頂について

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有り難し有り難し 18

摩訶不思議な能力(透視とか霊感的なやつ)が身に付いたら今後の人生楽しそうだと思い色々ネットで調べたところ、ある方のブログで

ちゃんと修行して伝法灌頂を受けた?人じゃないと摩訶不思議な力は身につかないし、偽物だ

ぐらいの事が書かれていたのですが事実ですか?
むしろ、個人差はあれどちゃんと密教の修行をすれば身につくものなのですか?
私のような不純な動機、中年女性、実家の菩提寺は禅宗とかでも可能ですか?

2024年5月8日 8:48

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

個人的な意見ですが

ご質問拝見させて頂きました。そういう力をおもちの方がいるとは思うのですが、先天的にお持ちの方はあるとしても、後天的な力というのはどうも眉唾に感じております。少なくとも私の身近な僧侶全てを含めて誰1人そういう人にお会いしたことがありません。事実かどうかは正直なんとも言えません。ご自分の目で見て実際に体験、体感してもらって始めてそれに本物と判断するかどうかだと思うのです。少なくともこれをやったら何か出来る、というお話は眉唾だと思われた方がいいですよ。だってそれでしたらみんな出来るはずですよね?  合掌

2024年5月8日 8:53
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有り難し
おきもち

真宗大谷派の僧侶です。2024年4月25日にこちらに登録させて頂きました。双極性障害と診断され鬱や躁と戦っております。 医療事務、医療関係の人事部所属、塾講師、ネットショップオーナーなどを経験しております。
基本的に法務から帰宅したらずっと見ています。体験したことがないものはお答え出来ません。 また、ご質問内容をかなり熟読して色々悩んでから回答させてもらっています。ですからお時間がかかることが多々あります。ですので、オンラインなどで即答出来ないと思っておりますので、オンライン個別相談不可とさせてもらっています。ご理解ご了承ください。ただ、メールなどでの個別対応は可能かと思います。ご相談ください。

神通力

人間の働きは現代の医学・心理学でも解明できていない不思議な力があるものです。
精神の持つ様々な多面的で多様な作用が時に摩訶不思議なはたらきをなす。
そういうものを神通力とか特殊な力というだけでしょう。
ある種、煩悩だって摩訶不思議ですよ。
現実にはありもしないことをリアル以上に妄想して、真実以上の作用として人の脳裏にとりついて身心を苦しめ、人を害し人を傷つけるのですからね。
だから、そういう力があってもエゴをベースに生きている人が悪用をすれば人を騙したり、欺くようなことにしか使わない。カルト教団がまさにそういうものでしょう。
だから、そういうものを求めるよりも先に調えるべきことは菩提心なのです。

いくら坐禅やマインドフルネスだって、ちゃんと人が救われる形で広まらなければ、自分のための美容、自分のためのヨーガ、自分のための特殊なスキル、自分のためのエゴ坐禅エゴ瞑想にしかならん。

そこでもう一度。

「ちゃんと修行して伝法灌頂を受けた?人じゃないと摩訶不思議な力は身につかないし、偽物だ。」
まさにその通りでしょう。
ちゃんと修行し、ちゃんと信心をもち、ちゃんと菩提心を持ち、ちゃんとした人間性でなければ、危ない人に兵器や国の統治権をわたすようなものです。

2024年5月9日 14:11
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お忙しい中ご返答ありがとうございました。自分の目で見て判断しようと思います。

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