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吐いている人を許せるようになりたい

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有り難し有り難し 6

いわゆる嘔吐恐怖症なのですが
人が吐いているのを見るのが無理で、最近より酷くなって困っています。

電車の22時代は心がザワザワ、それ以降〜終電はネットサーフィンもできないほど、周りに酔っ払いがいないか見渡したり
音楽を聴きたくても、もし危険を察知できずに目の前で吐かれたら?と思って
耳をすませて1時間のっていて、ずっと苦痛です。(持ち家のため引っ越せません)
家族が治安の良いグリーン車に乗っていいと提案してくれましたが、降りてからのホームや、改札、自転車乗り場までの道で吐いてる人に遭遇したら…とバクバクが止まりません。

自分が中学生以降どれだけ体調悪くとも吐いてないため
・なぜ人前で吐くのか
・我慢できないのか
・片付ける人に申し訳ないと思わないのか

などの怒りが大きいです。
人によっては「吐くことなんて普通、たいしたことない」と思って、
トイレや家まで我慢できるだろうに、ホームや道で立ち止まって、吐く準備をしてる人へも死ぬほど怒りが湧きます。

婚約者が、慣れない親戚の飲み会でたくさん飲まされ、
帰りの道で間に合わず吐いてしまった時も
その場から逃げ出し、しばらく幻滅して前より気持ちが薄れてしまいました(しかも自分側の親戚がふざけて飲ませたのに、自分はなんて人手なしなんだと思います)

だいたい夜だけ不安に襲われていたのですが
最近子供を産んだ友達が「産院の待合室で、急いでトイレに駆け込む妊婦さんがいて、そのあと嗚咽の音が聞こえてきて本当にかわいそうだったの」という話を何気なくされただけで酒以外でも嘔吐があると気づき
昼間のスーパーなど酒が関係ないトイレでも警戒してしまい、
逆に耳をそばだててしまい嫌です

こんな生活苦しいです。
ちなみに嘔吐恐怖のきっかけは、飲み会帰りの父が家で吐き、母に片付けさせていたことや、
マンションの共用部に吐瀉物があると、吐いた人じゃない人が片付けるのに嫌悪を抱きました。

今年の初めに貯金1/4相当のブランドバッグを手に入れてから、
それを吐瀉物で汚されたくないという気持ちも大きくなり、それも最近嫌悪感を加速させるきっかけかもしれません(怖くてほぼ持ち歩けません)
精神科で、深く考えないで気持ちを切り替えましょうと言われましたが、無理でした

吐いてる人許して、普通のことって思って、フラッシュバックしないように楽になりたいです

2024年7月4日 2:30

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

可哀そうな姿だとみてあげてください

人間という素晴らしい生命体にはその素晴らしい生命をまもるために様々な防衛反応やアレルギー反応がそなわっているものです。吐くというのも生命の安定性のキープのために必要なこと。
あなたが吐く人を見ると反発をしてしまうのも、心理的なアレルギー反応と捉えてもいいですが、反発した結果、人に対して嫌悪感や敵意が生じてしまうとそれが他の人からも「え?」と心理的なアレルギー反応を生むかもしれない。つまり、あなたも人に迷惑をかける側となってしまう。
負の連鎖を生み出すのはよくないことですから、吐いてしまうことへ理解、ああ、そういうことでそうなってしまったのかぁ、という慈悲の視点を持つようにされてはいかがでしょうか。施設で働く人たちも自分の力ではどうしようもないことをケアするお仕事をされている知っぱなお仕事です。
誰でも記憶は定かでなくとも、吐いたりオモラーをしてしまったこと、誰かにお世話になることは多数あるはずです。
もし、世界中から愛される超ご立派な人が来日して、超ご立派な内容の講演会を開いたとしても、それによって事故が起きて渋滞が起きて🚑💦救急車が通れなくなって死んでしまえば、そのご立派な方のご立派な講演会、フォロワー、信者だって、間接的にはよろしくないことに加担してるもんでしょう。
そのぐらい人間、生物、生命体の活動というものは不完全なのだからこそ慈悲心は必要なのです。もう少し言えばッ子の世界のすべてが人間の価値観、人の見解が介入できない姿をしているものなのです。
仏教的には無我というのです。
無我とは人間個人の我が無いという心理の事だけではありません。この世の全体の姿・あり様が既に人間の価値観や良い悪いの評価や判断を超えていることをあらわす道理なのです。
よって、あなたがあなた自身の心理的な反発作用や自身の価値観の縛られから本当に救われたいと願うのであれば、仏の教え、物事の根本の道理をきちんと具体的かつ詳細に説いてくれる仏教を探して厳選して学んでみてください。そういう気持ちを持つことが大切です。
たとえば毎日口にする食品でも同じような製品は沢山ある。大切なことは毎日食べてもホントに大丈夫であるかどうか?こそが大事です。仏教なんてどれもおんなじだと思っていれば、何を引き当てるかはわかりません。
自分が救われる道理・法則をきちんとしっておおらかな心を得てください。

2024年7月4日 10:18
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

私達は限界がありますから

拝読させて頂きました。
なるほど、あなたが吐いている人のことをその様に見ていることやその様に考えておられることを読ませて頂きました。あなたがその様に思ってしまうのもわかる様に感じます。あなたのそのお考えやお気持ちを心よりお察しします。

確かにその様なことをしている人を見ると許せないと思うこともあるかとは思います。
何でそんなことしてるのかと思ってしまいますよね。私もよくそう思っていたことがあります。

ただ自分もそうしてしまうこともありました。そうした時の自分の愚かさを痛切に感じましたし、自分とは限界のあることや有限性を感じました。
自分が受け入れられることは有限なんだ、自分には、限界があるんだということを感じて考えるきっかけになりました。

そして何より自分は、自然の摂理の中で生きているのだ、生かされているのだ、自分に消化できるものやことには自ずと限界があるんだと嫌というほどわかりました。
私達の肉体には限界がありますから必要以上の摂取をすれば受け止めてきれずに自ずと外に出します。私達の肉体は常に循環していますからね。

あなたはいかがでしょうか?

2024年7月5日 8:13
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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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