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人生に満足した後はどうすればいいですか

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有り難し有り難し 32

初めて質問します。

こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。

ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。

問題はここからです。
理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。

何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。

人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。
何卒宜しくお願い致します。

2024年8月21日 16:24

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今に限りがある。何となくの毎日がこの上ない安心と幸せになる。

プロフィールも読ませてもらいました。今あなたは、掲げた理想を手にされて、幸せいっぱいだと思うのですよ。その幸せのそばに、ご家族もいらっしゃることでしょう。家族がいないと手に出来なかったことですものね。

家族がいて、幸せで、そんな環境が何となくの毎日なのでしょうか。もしかして、手にすることだけを目指してきたのではないでしょうか。
家族や居心地の良い暮らし。そこに生まれるものはありませんか?手にしただけで十分でしょうか。

仕事のスキルアップや、家族の夢を応援するのもいいでしょう。家族での幸せを。例えば、子どもの成長や家族の思い出、たくさんの経験を重ねていくことも、実は限りがあるのです。親も子もいつまでもそばにいません。離れていく時がきますから。

毎日何となくの時間は、実は限られた時間なのです。ですから今ある瞬間も、二度と手にすることのできない時間。そう思うと、大きな理想などが無くても、今を継続する毎日がどれほど恵まれた幸せなのか。何となくの毎日がこの上ない安心と幸せになると思いますよ◎

2024年8月22日 2:52
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有り難し
おきもち

はじめまして(*^^*) 中田みえです。 教善寺 住職として、母親として...
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体の業が尽きるまで

釈尊が悟りを開かれた時、欲も怒りも無明(私という気持ち)も完全に消え、現象は何事もみな生滅変化の連続で無常で苦であり、現象でない法則(諸行無常など)を含めてすべての物事がみな無我であると解明し、修行が完成しました。
 満足してそのまま亡くなってもよかったのですが、前世からの体の業がまだ続き、わざわざ死ぬ欲も生きていたくない怒りも起きません。何よりも、そのまま亡くなったら数多の独覚ブッダと変わりません。自分一人のためだけに頑張るのはまだ簡単なのです。
 体の業が尽きるまでの残りの生涯を、釈尊は弟子や在家者たちを教え導く利他行に費やしました。仏陀と、教え(経と律)と、それを実践し続けるシステム・サンガという仏法僧の三宝になりました。
 大変なのは、自分が得た解脱という宝を他者に教えて同じ解脱を得させてあげる教え導く利他行です。仏が、自分だけでなく法と僧まで体系づけるのは至難の業です。正覚ブッダの正は、万民にあまねくという意味でもあります。
 悟ってから体が亡くなるまでの残りの生涯分だけの活動ですが、考えれば、独覚なら悟って亡くなって一代80年で終わりのはずが、稀にしか出ない正覚ブッダの教えと教えのとおりに修行して悟る弟子たちのおかげで、悟りの智慧と在家も含めて徳高く生きて死ぬ慈悲の教えが、2600年後の現代までまだ続いています。
 あなたが自分の目標を早期に達成したのは素晴らしいことです。満足する気持ちも分かります。しかしすでに達成に飽きつつありますね。しかも、これから生き続けようと思ったら、自利だけでなく利他・恩返しが大変です。親を看取るまでの親孝行、妻と支え合う生涯、子を育てて社会に送り出す教育、友人知己仕事仲間との付き合い、、、特に親に生み育ててもらった恩は絶大で、恩返しを放棄する親不孝は借金踏み倒しよりはるかにひどい大悪業だと言われます。
 世俗でとりあえず満足した後に関心を引き得るものは、ブッダの教えしかないと思います。利他行・他者への責任を義務ではなく自分ならばできると慈悲の気持ちで行う力を与えてくれるものも、仏教だけだと思います。
 まずは世俗の生活を保持したまま、仏教にも触れるとよいでしょう。在家のままでも悟りに至ることはできます。スマナサーラ長老の日本語の本やyou tubeがあらゆる分野に関して溢れるほど答えを示しています。検索してみてください。

2024年8月22日 8:18
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有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
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足の裏で一歩一歩を感じながら歩くことも完全燃焼

丁度、先週の坐禅会でこのようなことをお話しました。
人生どのように処する、どのように生きることが、完全燃焼なのか。
悟りと開いても開かんでも「今」と共にある。
ならば、そこ、その時、その場、その状況、そのことを完全燃焼するかのように「生きる」ということは、どうあればよいか。
たとえば、今、呼吸をしながらも呼吸を忘れている。
忘れていながら、呼吸が完全燃焼できているからこそ、生きているのです。
呼吸一つでも不完全燃焼であれば、酸欠状態です。
🏊プールだったら、苦しいはずでしょう。
呼吸一つでもそういうことがある。
では人生において、毎日毎日は真新しいわけです。
いつもフレッシュな日が来たる。
昨日の満足があっても、今日は今日で続いているわけですからこそ、そこを生きるうえで「どのように」あるべきが人間の真実のありようであるのか。
そこを問い追及する、明らかにするのが仏教、仏道、人生における最上安楽な生き方をあきらかにするということでもあります。

答えは理屈で説明するべきものではありません。
自分で、ああ、本当だ。ここだ。なるほど。確かに。間違いない。というぐらいにきちんと今という時とお友達になって、和して、親しんで、溶け込んで、大丈夫な人になっていただくべきではないでしょうか。誰であっても。
そうでない人人は頭で思い描いた理想状態や、ストーリー上の人生を思い求めて目の前や足元すら疎かになる。
目標が遠くにありすぎる人は、近くの物事に接していながらも、接していないようなものです。
その点、動物たちは正直で素直です。
昨日いくらご飯を山ほど食べたといっても、今日は今日でお腹がすくのは当然のことですから、今日は今日のえさを求めて、今いるところを完全燃焼で一歩一歩🐾歩んで生きているのです。
何かに充足感を得るという事前設定は私はいらないことだと思います。
充足していないと、不満が起こったり、今の自分のままではいけないと思うようになる。すると、(´ー`)今の自分のままではいけないと思います。だから今の自分のままではいけない、このままではいけない、とか謎の方向に向かって歩みだすこともあるかもしれません。
電車にのれば、自分がいこうとか、いくまいとかに関わらず、進んでいくものです。すでに人生、生命というレールを走っているのですから安全運転、完全な運行を。

2024年8月22日 11:40
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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

藤本さま 中田さま
ご回答ありがとうございます。

私は中田さまがおっしゃる通り、理想を手にするために生きてきました。そして藤本さまがおっしゃる通り、その理想の達成に飽きつつあります。こうして言葉をいただき、それを受け止めるだけでもとても楽になる感覚があります。ありがとうございます。

今、自利利他について調べています。仏教は10年以上前に高校の世界史で少し触れた程度です。何も知りませんが、この自利利他の意味を知っただけでもなぜか身体が熱くなる感覚があります。毎日何となく生きる日々は身体の内側が冷たく、頭も冴えず、体調を崩すことも多いです。明らかに子育て前よりも負担のない仕事に転職したにもかかわらず、です。本当に不思議でしたが、少しだけその意味がわかった気がします。

最後に、自分の理想が叶ったことはとてもうれしいです。今改めてそう思います。ただ、理想の状態を維持することに執着する今は、私の性に合っていないのかもしれないと思いました。理想の先にどう生きるのか、その手掛かりをいただきました。自利利他、胸に刻み、頭に入れ、内側を熱く感じながら過ごしたいと思います。

本当にありがとうございました。

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