般若心経の「実体がない」とは…
こんばんは、般若心経について質問させて頂きます。
幾つかの本や、ネットで般若心経の意味を調べました。この世の全ては「実体がない」という事は分かりました。しかしその「実体がない」という事が何なのかが、どうしても分かり切る事ができないのです。私達が見ているもの感じているもの、そして私達自身、世の中のあらゆるもの、実体がないとはいえここに私の身体はあります。
「実体がない」とはどういう事なのでしょうか?このような疑問も実体がないのでしょうが、どうか教えて頂きたいと思います。よろしくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「空と縁起」
マリー様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
般若心経において説かれている「実体の否定」について、否定される「実体」とは、簡単には、モノ・コトが、それ自体の側において、永久永遠に変わらずに存在し続けているような、「独立自存」なる何かによって成り立っているのかどうかということで、そういった「独立自存」なるものがあるかどうかとなると、そういったものは無い、つまり、それ自体が、それ自体として、それ自体によって成り立っている何かが、どこにも見当たらないということであります。
しかし、マリー様も「私達自身、世の中のあらゆるもの、実体がないとはいえここに私の身体はあります」とおっしゃられていますように、現に、「実体が無い」といっても、「何も無い」という「絶無・虚無」ではなく、確かに、マリー様も拙生も、今、このようにして存在しています。目の前のモノ・コトも、もちろん存在しています。
ただ、それらは存在してはいますが、そのありようは、あくまでも「実体の無い」、「空」なるものということになります。
では、「実体の無い」、「空」ではあるものの、モノ・コトというものは、どのように存在して成り立っているのかということを、それらは、「必ず何らかの他に依存して成り立っている」と説明することになります。それを仏教では「縁って起こっている」ということで、「縁起」として説明します。
その縁起についても、いくつかのレベルがあり、例えば、「原因と条件と結果のそれぞれとの依存関係」、あるいは、「部分と全体との依存関係」、更には、私たちの「意識作用・概念作用・思惟分別作用により、仮名・仮説・仮設されることによっての依存関係」として、大きく三つに分類されることになります。
この「空と縁起」としてあるモノ・コトのありようを正しく理解することにより、私たちが普段、間違って、何かそのモノ・コトに実体があるかのように、とらわれを起こして、迷い苦しんでいることをよく知り、その迷い苦しみから離れていけるように調えていかなければならないとして、「般若心経」の中でも「一切の顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す」と述べられているのであります。
この問答も、もちろん実体としては成り立ってはいない「空」でございますが、「縁起」としては成り立っているということになります。ご安心を。
川口英俊 合掌
実体がないということの例え。
マリーさん こんにちは。
難しい質問です。これが分からないから修行しているのです(笑)。悟っていたらすでに成仏しているのですから。
といいつつも、私なりの愚かな例えで。
例えば、あなたの前にコップ(色)があるとします。コップって本来、水を飲むものですよね。でも使いようによっては、いろんな道具になります。例えば、花を入れれば水差しにもなるし、絵の具の水入れにもなる。夫婦喧嘩の時には飛び道具にもなる(笑)。つまり、これを水を飲むコップと思っているのはあなたの認識があるだけで、実はその人それぞれの立場でコップの意義が違ってくるのです。これだという正解はない、つまり実体がないのです。これが(空)なのです。これを「色即是空」といいます。簡単にいえば、形に捉われるなということです。
そして実体がないという、捉われれのない自由な認識(空)の立場で、もう一度コップをありのままに見る(色)。実は自分がコップと思っていたのは鉛筆挿しだった・・・とうことはたくさんありますよね。
物事を形で決め付けず、本質を見抜く。これが「空即是色」になります。つまり最初の色と最後の色は色≠色なのです。同じものであっても真理(空)から見ると違う。これが般若(智慧)の見方です。
マリーさんも自分の肉体だと思っていても、すべて自分でコントロールできませんよね。心臓は自分の意思でなくかってに動いています。欲望は自分が否定しても現れます。自分が嫌いな人と思っていても恋愛感情を持つこともある。そして好き嫌いに関係なく死にます。マリーさんの身体はマリーさんのもの(色)と思っていても、実はマリーさんのものになっていないのです(空)。
では真理から見たら、マリーさんはどういう存在(空即是色)なのか。その生きる意味を探すことが仏道修行となります。もしかしたら、マリーさんは愛を世界に広めるために生まれてきたのかも知れません。それとも素敵なパートナーを見つけるため?もしかして未来に世界を救う大切な子どもを生み育てるためかも知れません。マリーさんの生きる意味はマリーさん自身が発見していくことなのです。私たちも同じです。
つまり、般若心経を簡単にいうと、「形に捉われ判断するな。真実の姿を見極めろ」ということになります。
合掌
対立概念と比較すると分かりやすいです
返信欄を拝見して「あれ?」と感じましたので補足的に。
順を追ってお話ししましょう。私たちはついつい、私たちには魂のような本体(実体・絶対的な個)があると思いがちです。大昔のインドでもそうでした。インド哲学のそれをアートマンと言います。それに対してお釈迦さまは「そんなもん、有るとも無いとも証明できないじゃん?」と考えたのです。
じゃあお釈迦さまはどうお考えになったか?
「あらゆるものには原因と結果がある」
そりゃそうですね。私たちは両親から生んでもらったという原因、今、私が回答しながら食べている赤いきつねがエネルギーになるという原因、今、私が回答を打っているタブレットをマリーさまが使っていないという原因…挙げればキリがありませんし、認知し切れるものでもありません。無数の原因の結果として今の私は成り立っています。
そうか、その原因と結果の網の目のような繋がりこそが、我々の本性なのだ!それがお釈迦さまのお悟りです。
この繋がりが仏教的な『依存』です。一般に親やパートナーに「依存」するの「依存」とは別物ですのでご注意を。「実体が無い」という表現に振り回されていらっしゃる感がありますが、これは「何も存在しない」とは違います。レゴのブロックを積み重ねた家の本体はどこですか?本体は無い。でも家っぽいソレは有る。そこを混同すると混乱します。ブロックの集合体として、プラスチックの連結として、ソレっぽい物があるでしょう?「実体が無い」とはそこまで否定して虚無主義に走る性質ではありません。
で、「依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖」、原因と結果の繋がりをよりどころとすれば、これが実体!とか、俺ガ俺ガー、私ガ私ガーという狭い視野が無くなる。視野の狭さが無くなれば、恐怖なんてブッ飛んでしまいますわな…という話です。
お墓参りをして、お供え物のお米をカラスが食いやがると怒る人がいます。お米を俺のものだ!とか俺がご先祖さまにお供えしたものだ!と私物化するからカラスに盗まれるという構図が生まれる…
でも、本当は俺という実体が無いのだから、お米は俺の物という構図が生まれようが無い。だからカラスに盗まれるという構図も成り立たない。怒る構図が無くなってしまうから怒りようが無い。苦が生じない。般若心経。(※人だったら泥棒ですので正当化に利用しないように)
質問者からのお礼
ご丁寧なご回答ありがとうございます!私達は他に依存しているが故に実体があると思い込んでいる、という事ですね。様々な思い込みや勝手な苦しみから離れる事ができれば良いのですね。
ありがとうございました。
染川様、ご回答ありがとうございます!
とても分かりやすい解説で目から鱗と言った感じです。本当にありがとうございます。お坊さんたちもそれを悟るために修行されているのですね。私も私なりの修行をしたいなと思います!
大慈様、ご回答ありがとうございます!
仏教での依存とはそういう意味だったのですね。教えてくださりありがとうございます。