生への執着のなさは普通でしょうか回答受付中
はじめまして、なかなか周りの人に聞くことができず、相談に乗っていただけますと嬉しいです。
もうすぐ40歳の主婦兼ワーママです。
娘が2人おり、ママ大好きと慕ってくれていてとてもかわいいです。
主人も、優しく、子煩悩で、温厚で、お仕事もとても頑張って稼ぎもよく、家事もしてくれます。主人のこともこどものことも大好きです。
私の職場の方もワーママが多く、子育てに理解があり、本当に優しい方ばかりです。
実家も仲が良いです。
大きな挫折も経験したことなく、人間関係に悩むこともなく、恵まれて育ってきたと思います。
ただ、私はいつも、このまま消えてもいいと毎日思っています。
死にたいとかでは決してありません。
ただ、このまま朝目覚めなくてもいいかなという程度です。
理由はわかりません。
何も嫌なことはないのです。
もしかしたら、良い人生だっから今終わっても悔いがないという方が近いのかもしれませんが、こういった感覚になるのは普通なのでしょうか。
昔から生きる意味とか、考えたことはなく、
向上心もあまりない方です。自己肯定感も低いと思います。
友達もいますし、多趣味だといわれます。楽しんでしますが、何をしていてもすべて死ぬまでの暇つぶしという感覚なのです。
最低ですが、私がいなくなっても、主人なら絶対子供2人を育ててくれるし、別に大丈夫だろうと思ってしまいます。
こういった感覚は、よくあるものなのでしょうか。
若いころは、こんな気持ちになったことはありませんでしたので、毎日家事育児の生活で、同じ毎日の繰り返しのような感覚もあるので、そういったところもあるのかもしれませんが・・・。
まとまりのない文章で申し訳ありません。
毎日いつ消えてもいいやと思いながら生きているよりかは、何かいい方向に思考をもっていけたらと思っています。
どうぞ宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
しあわせの極みを無意識が感受しています。
拝読させていただきました。
yagiさんの今を生きている人生は、とてつもなく満たされた中を生きておられます。
ご質問に「良い人生だっから今終わっても悔いがないという方が近いのかもしれません...」とありました。
人びとはこれが出来れば、僧侶も含め苦悩はなく、また世の中に平和が訪れることです。
yagiさんのすべては文章からは把捉できませんが、基本的に「執着されず、今を切に生きている」という仏教では理に叶う生き方をされています。
これを「諦観」と称します。諦めるという字は過去の苦い思いを追い過ぎず、また未来も願っておらず、ただただ今を生きているという「中道(ちゅうどう)」という釈迦の真髄の教えです。
人は諦めが悪かったり、悔しい気持ちなどから這い上がろうなどと、何かしらに比較や打ち勝とうとしています。もちろん克己心が何よりも大切なのですが、yagiさんはすでにお持ちのようです。
比較しない、偏らない、今をしっかり生きることに専念しているからこそ、満たされる今日で終わればそれで良しと思える素晴らしい生き方です。
また多少の困難を困難とも思えない楽観的や偏執されない聡明な心をしっかりと自己育成されてきたと察します。
仏教では「利他実践」が主軸となります。それは今、yagiさんが満たされている生き方を自分自身の中に納めるのではなく、生きにくい生き方をしている苦悩ばかりの思考回路などをもった方々が近くにおられればヒントを是非とも与えていける語彙力をもって伝達・伝道していってほしい限りです。
人の悩みを悩みとすることも、生きる力へとなっていきます。いわゆる宿題のようなものです。
「良い人生だっから今終わっても悔いがない。」という気持ちから、誰かの苦悩を解決してあげるまでは、この命は終わらせることはできないという風にとらえていってもらえたら幸いです。
人びとは、欲が多過ぎる生き物であるからこそ、欲は果てることはなく、満たされても、また欲する生き物が人間です。その苦悩から解放されたいが中々いい智慧(心)が浮かばないのと、決断(諦観)することができないのです。
人の苦悩はすべて自己の内にある「迷い(無明)」から生じています。
yagiさんの人生観より、人びとの持つ苦悩を抜苦与楽してあげる生き方を是非とも、もう一つの人生観として入れていただけましたら有り難い限りです。
生きるということ
yagi 様 相談ありがとうございます。
生への執着のなさ。それが誰にでもあるのかどうか、どの程度人によって違うのか、それは全く人それぞれだと思います。
しかしながら、もしあなたのお子様が、難病になり明日をもしれぬ命だとしたら。もしあなたのご主人が悪性の進行性の癌だとしたら、お子様でも、ご主人でも、一日でも長く生きて欲しいと思うでしょう。自分に生への執着がないと言いながら、家族には生きることを望む心があるのです。自分に生きる執着がないというのは自分勝手でエゴだと私は思います。なぜならご主人様からもお子様からもあなたは一日でも長く生きて欲しいと思われているからです。
今が幸せと感じるなら、もっと幸せを享受しなさい。家族の絆や繋がりを感じるようにするのです。「人はひとりで生きているわけではない。誰もが誰かとつながって生きている。生きるということはそれだけで誰かに背負われるということであり、同時に誰かを背負うということだ。」
そして
「確かなことは、ひとりで歩むには過酷な道も、誰かとともに手を取り合えば進むことができるということだろう。その先にあるものが、希望か絶望かは定かでない。愉快か苦悩かもわからない。わからないから投げ出すというのは短慮というもので、わからぬままそれでも力を尽くして前へ進むということが生きるということである。」
生きるということは、執着があるとかないとかではなく、力を尽くして前に進みこみ、今を生ききることを続けることにあるのです。
(偉そうに言いました。「」の文は、夏川草介著作の小説からの引用です。)
参考にしてください。
日常生活に支障や不快感がなければ良い
日常生活に支障や不快感がないなら問題ありません。
死を知識として知っている私達がそれを意識してしまうことは悪いことではありません。
また、浄土宗を開いた法然上人は、
「死ねば極楽浄土に往生できるし、生きていれば念仏の実践で功徳を積めるのだから、生死ともに思いわずらうことは無い」
と言われました。
生きても死んでもどちらでも良いという心境は、とても気楽で素晴らしいことです。
ただ、無気力やだるさ、集中力のなさが続く場合は何らかの体調不良の可能性があります。
医療機関に相談してみるのも良いでしょう。