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あの方のお話をまた聞きたい

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先月、遠い親戚の葬儀に参列した際に、来て頂いたお坊さんの説教に大変感動しました。

いままでの自分のモヤモヤがそのとき救われた気がして。こんな風にお話をしてくださるお坊さんっているんだと、はじめてお坊さんを有難いと思いました。

そこから私はもう一度あのお坊さんに会いたい!またあの方のお話を聞きたい!どんなことを考えて生活してるのだろうと毎日気になって仕方ありません。

その方のいるお寺で行われている座禅会にこの間はじめて参加しましたが、法話はそこの住職さんがしています。住職さんのお話も有難いのですが、私のように最近、仏教に興味を持ち出した者には少し難しく…

できれば、葬儀の時のお坊さんのお話が聞きたいのですが、唐突にお話聞きたいです!というのはおかしいですし…じゃあ何の話を聞きたいのかと言われると…特に悩んでるわけでもありません。

とても困る質問ですみません。

住職じゃないお坊さんの法話はどうしたら聴けるのでしょうか…?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私なら

そこの住職に直接伺います。

あの方の通夜の法話が私にはとても心うたれました、また聞かせていただきたいのですが、なにかそのような機会はありませんか?これといって聞きたいことがあるわけでもありませんが、また何かご縁をいただけませんか?

こんな感じでだいたい大丈夫だと思います。

法話も相性がありますから、住職に他の方の話を聞きたいと申し上げても嫌な顔をする方はあまりいないと思いますよ。

たいていは興味をもって、よほど忙しい方でなければ何か縁づくりをしていただけると思います。

ご縁があれば私もその方のお話を聞いてみたいです(笑)

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おきもち

私達は本当に悩んでいる事は、なかなか相談する事ができませんよね、私も10年ほど精神病に苦しんでいましたが、自分に向き合ってくれる人が1人いるだけで心が軽くなるものです。 仏様のお心に支えられながら、あなたのお悩みに応えていきます。 散居村のお寺の住職です。 たまーにしかお答えしていませんが どうぞよろしくお願いします。

もう一度お話を聞く。

千日紅さん、ご質問ありがとうございます。

住職さんにお聴きになって、直接お話を伺うのも、有意義ですね。

その方の所属しているお寺で、定例の御法座があるかもしれませんから、そこでお話を聞くこともできるでしょう。

座禅会ということで、私の属している浄土真宗ではないようですが、浄土真宗では、有志の僧侶が「浄土真宗の法話案内」というHPで、各地の法話を案内しています。http://shinshuhouwa.info/

御講師で検索することや、地域・日時等でも検索できます。

興味のある方は、一度ご覧ください。

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個別相談可能
真宗山元派上西山正善寺住職

直接お問い合わせを

その方のお話しがスッと入って来られるのでしょうね。
素晴らしいことです。さっそく電話を致しましょう。
「もしもし、私は以前お葬儀の際にお世話になった〇〇と申します。突然のお電話で大変恐縮ですが…。
実は、以前葬儀の際に若住職さんにご法話を頂いたのですが、大変感銘を受けました。
それで、もし若住職さんからまたお話を伺えるような機会があればご紹介いただきたいのですが…」
などとお問い合わせいただければ、お寺の法話会でなくても、その方が携わっておられる布教に関することを教えていただけるかもしれません。
その若さんと致しましても坊さん冥利につきますね。実際法話の後のフィードバックは皆無ですから是非、いいお話しだったとご連絡差し上げてください。
お寺と致しましてもそのように言って頂ければ若住職さんも励みになると思いますよ。(^<^)

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

いちかわさま、ありがとうございます!!

とても素晴らしい方で、失礼な言い方で申し訳なかったのですが、お坊さんに良いイメージがなかったので、この方が私の求めていたお坊さんだ!(←理想の)という感じでした!

こんなにも優しく人の悲しみをすくい上げてくれることに感動しました。

また座禅会に参加しようと思っているので、住職さんもとてもフランクに朝食食うぞ!と声をかけてくださる方だったのでお話してみます!

ありがとうございました!

藤堂さま、
法話会のご案内ありがとうございます!
ぜひこちらも参考にさせていただきます。

座禅というのは、宗派によって行わないと最近調べて学びました!これからも色々勉強していきたいと思います。
また、ご指導お願い致します。

覚元さま、この度はご回答ありがとうございます!その後は月に2回の朝の座禅会に通い、朝のお勤めに参加し、そこのお寺の法要にも参加してまいりました。
その方丈さまにも顔を覚えてもらい、声を変えてくださるようになりました!
御住職にもお話ししてその様なご縁をいただけるようにしたいと思います!
厳格なムードが漂うお寺でなかなか声をかけられずに一カ月経ってしまいました。
年内にはお話しできたらと思います!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ