『親』という名の権力。
昨日、北海道で親が子供が言う事を聞かないので『しつけ」と称して山中に置いてきぼりにして時間を置いて見に行ったら行方不明になっていてただ今捜索中であるというニュースが世間を賑わしております
私は昔から【無理心中】という日本語が怖いなとしか思えません
それは
『息子』、『娘』などの子供が一家を殺せば思いっきり犯罪になってしまうのに
『親』が家族を皆殺しにすれば【無理心中】という単語に【変換】され
ある種【正当化】されてしまうからです
それっていうのは
『家族』の中で『親』が社会で【権力化】して認知され
「あってもいいんだよ」的解釈にされてしまってる事は
非常に間違っているように思います
『【親は子供の意志と関係なく人生に行き詰まれば皆殺していい】』
と・・
冒頭の子供置き去りの事件に話を戻しますが
この問題も今、私が【無理心中】の件でしゃべった事と何か関連してるように思いました
これはここでしゃべり切れないかもしれない深過ぎるテーマかもしれませんが
『親』
と
『しつけ』
という名の【権力】の行使
『親』と『子供』の関わり合い方
『子供』がこういった【権力】から自由になる事は出来るのでしょうか?
あるいは
そういった【権力】と一生関わらなければいけないのでしょうか?
ご教授お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
身を美しくと書き躾と読む
拝
事件には胸が痛みますね
早く戻って欲しいと願うのみです
事件に関して現場にいない以上
メディアの情報だけで議論する事は空虚になるので拙方は控えます
宇宙から見れば
親だから先に生まれただけで偉いという概念など
吹けば飛ぶ埃のような概念と存じます
そもそも親には子を守り育てる義務はあれども権力など与えられていません
子育ては本質的に奉仕なのです
さて無理心中は周囲を巻き込んで自殺する事ですよね
言い方を変えれば周りを巻き込んだ自傷行為
一方しつけは「躾」と書きますとおり
子供が身を心を美しく保つため
愛と然りを使い分け行われていくべきものです
しかしこの二つは表裏一体の性質を持ち
バランスを崩しやすいものです
然りに怒りが混じれば横暴な権力となり子を傷つける事でしょう
愛に押し付けがあれば子は親のマリオネットを演じるようになるでしょう
どちらも常態化すれば子は親に対して意見を言えなくなり
やがて自我の発達に抑制がかかってしまいます
この恐ろしさをもっと多くの親が知るべきと
今回の事件で思いは深まりました
今朝は良い禅のお題をいただきましてありがとうございました
合掌
一生は続きません
連日のニュースに、胸が痛みます。一刻も早く、少年が見つかることを祈っております。
私は子育ての目標は、子どもを精神的に自立させることだと、思っています。
その際に、どうしても、環境が整わないので、親と離した方がいい、少年少女もいて、そのための施設も日本中にございます。そして、それぞれの立場で、大勢の大人の方が、サポートしています。
一生関わらなければいけないのでしょうか?という、俺の源泉!!さんの質問がございました。このようなことを書かれたということは、何かご自身で決めかねていることがあるのかな、と気になりました。
もし、一生関わらないといけない、と思われているのでしたら、そんなことはございません。ひとりの人の自立は、その周囲の人をも自立させます。
私の思い過ごしでしたら失礼いたしました。
質問者からのお礼
>子育ては本質的に奉仕なのです
こちらこそ良いお導きをありがとうございました。
>何かご自身で決めかねていることがあるのかな、と気になりました
一生十字架のように『親』という【呪縛】に支配され続けながら生きなきゃいけないのかな、と思っているからです
お気遣いありがとうございました。