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お年寄りの心境について

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ここ最近亡くなった祖父母のことを思い出していて疑問に思ったことがあるので、お坊さんの意見を聞きたくて質問しました。
私の祖母は生前、「友達もみんな死んでしまった。早くお迎えが来てほしい。」とよく言っていました。
しかし、それと同時に毎月大量の健康食品を買っていました。
82歳で亡くなったので長生きした方だと思いますが、やはりお年寄りでも死ぬのが怖いのでしょうか。
私はまだ16歳なので、やりたいこともたくさんあるし、死ぬのが怖いです。
でも、80歳にもなれば自分の死を悟ってくるものだと思っていました。 父は、「歳をとると、ある程度悟ってくるもんだ。」と言っていましたが、
母は、「そんなこと考えたことない。」と驚いていました。
お年寄りがよく「お迎えに来てほしい」と言うのは、どういう心境で言っているのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

怖くはなくとも悲しませたくない

リンゴさんはきっとお祖母さん思いの方なんでしょうね。また、命というものに対し、非常に熱心に考えていることが伝わってまいりました。

新聞の片隅にある、どこかの誰かの死亡記事を読んでもほとんどの方はたいした感想を持たないでしょう。しかし、それが知り合いであったなら驚きますし、親しい方なら悲しいものです。そして、自分がその当事者になる事にたいしては、恐怖を持つのが普通です。

どうして、怖いのか、それは死んだらどうなるか分からないからではないでしょうか。リンゴさんも、もし目隠しをして目の前に何がいるかも分からずに「この動物に触りなさい」といわれたら、例えそれがかわいがっているペットであったとしても怖くはないでしょうか。

仏教では亡くなると仏さまの世界にいく訳ですが、例えおぼろげでもその事を信じている方、そうでない方では感じ方が違うと思います。年齢はあまり関係ありません。

また、お迎えに来て欲しい、という言葉と、死にたいはイコールではないと私は思います。小さな子どもさんと違い、大人は思った事をそのまま口に出す人は少ないからです。
「お出かけですか」「ちょっとそこまで」
「いいお日和ですね」「そうですね」
「お元気ですね」「おかげさまで」
そういった会話と同じように、歳を重ねた大人には
「早くお迎えに来て欲しい」「まだまだ先ですよ」という阿吽の呼吸があるのです。

お祖母様の場合、お友だちに先立たれて、さみしいという気持ちも大いにあったことでしょう。また、リンゴさんのお父様の言うように、怖さが薄らぐ人は多いです。でも同時にお祖母様には、リンゴさんたちともっと同じ時代を暮らしたいという気持ちもあったはずです。
お年寄りにとって死とは、怖くはなくとも悲しませたくないという気持ちもあるのだと思います。

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住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

死は体験できない 

おばあさんは、自分の死にキチンと向き合っていたのではないかと思います。
年をとれば怖くなくなるか?と言えばそうではありません。
ちゃんと死に向き合っているかどうか、です。
若くとも死に対する正しい認識があれば死は恐れなくなります。
私もあなたくらいの頃は死ぬのが怖いと思ったことがありました。
ですが、仏教にであい、私というものを良く見つめる事によって、以前より死におびえることはなくなりました。
おばあさんの「早くお迎えに来てほしい」というのは「さびしい」ということでしょうね。仲のいい人たちや大好きな人達に先立たれてしまうと寂しいものです。分かってあげられなくてごめんね、とお仏壇にお手合わせしてあげてください。健康食品もあったくらいですから、本心は長くいきたかったと思います。
死は怖くなくなりますよ。
以下のことをしっかり読んでください。
アナタは誕生と死は体験できない様に生まれてきたのです。
生まれた瞬間を自覚できる人はいますか?
死ぬ瞬間も同じです。
この心身が死ぬ時に、死ぬことを自覚できる人は絶対にいません。
自覚するという事は、死んでいないのです。
生きている間に死を想うことがいくらあっても、死がこの体の上に実際に実現されること、死が起こることは一生涯ありません。
寝た瞬間に寝たことを知っている人はいません。それは寝ていないのです。
気絶した瞬間に気絶したことを知る人はいません。それは気絶していないのです。
だからいたずらに死を想うよりは、生きる事、生に力を注いでください。
「太陽と死は見つめてはならない」という言葉がありますが、死の事をずーっと考えたからって仕方のの無いことです。死のことを考える事の一番の利点は、ああ、もう死のことは考えなくてよいのか、という目覚めに到る事です。分からなければまたご質問ください。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
どれだけ歳を取ったかではなく、「死」をどう意識しているかが大事なのですね。
少し気持ちが晴れた気がします。
ありがとうございました。

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