仏教の理解と学び方
初めて、お便りさせて頂きます。
最近、仏教の教えを知り教えを学ぼうと考えています。
現状の仏教の理解や考え方の方向性が正しいのか確認をさせて
下さい。
現在、深刻な悩みはなく本件のご相談は、急ぎではありません
ので悩みごとのご相談の皆様を優先させて下さい。
■現状の理解内容(超要約して記載します)
1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。
2)涅槃(解脱)への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の
実践として「八正道」がある。
3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要
以下は、私の解釈した定義です。
無常:この世の全ては移り変わるもの
無我:全ては繋がりの中で変化している現象である
因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある
4)今後の方向性(考え方や実践内容)について
・目的:
日々の生活や仕事で、怒りなく、平穏で周りの役立つ人生を送る
・行動や思考の指針
日常生活では、八正道、慈悲喜捨、五戒などを意識し、正しい判断
基準で行動する。
・貪瞋痴に支配されない為の手段として、ヴィパッサナー冥想があり
今の瞬間に気付けるようにする。これにより、無常・無我、因縁が
頭でなく、身体で理解(体験・体感)できるようになる。
常に、今の瞬間の自分に気付くようにし、正見・正念・正定の向上
を図ることにより、煩悩が湧いてこないようにする。
以上の認識や方向性で、大きな誤りや重大な認識漏れがないか、
ご指導を頂けましたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
よく勉強されていると思います。
古きを温め新しきを知る。思想信条を離れて、お敬いの心は、仏さまに対してだけではないと思います。敬意を払うということですね。
学問としての教えなら、大学の教養講座等で学ぶことができるとおもいます。心を練ると言いましょうか、拙僧もお粗末極まりない凡夫ではありますが、明るく豊かで大らか、優しい心を作っていくように、日々研鑽していこうと考えております。教えてとしと学ぶだけではなく、法話を聞かれたり、写経をしてみたり、お経を上げてみたり、いろいろな角度から、仏教を体験することがあなたの人生をより豊かにするのではないかと思いますが、いかがでしょうか。人生の生き方に悩み、教えと信心が一体となって道になる。仏教は仏道、仏になる道だと、愚僧は考えております。よくまとめ理解されていらっしゃるように思います。私は、大乗、それも限られた範囲の知識しかございませんので、ウッパサナー瞑想はわかりかねます。最近、瞑想に関するご本が出版されており、何冊か読ませてはいただきましたが、体験という実践がございません。ご容赦くださいませ。浄光寺
少しでも今後の参照として
七一九様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教を真摯に学ばれておられますこと、誠に尊く有り難いことでございます。
少しでも今後の参照として、お役に立てて頂けましたら幸いに存じます。
1)仏教の目的:涅槃(解脱)に至ること。幸せを説くこと。
涅槃にはいくつか種類がごさいますが、ただ自分だけが「解脱」することには留まらず、全ての迷い苦しみにある衆生を救うまでは涅槃に住さないという「無住処涅槃」もございます。できましたら、そのような境地としての涅槃を目指して精進致して参りたいものでございます。
仏教の説く幸せは、世間世俗における幸せとは全く異なっていますので、その点は注意が必要です。あえて申すならば涅槃・悟りという「勝義の幸せ」と言えますでしょうか。ですので、世間での幸せ、例えば、お金や地位や名誉、権力など、そのようなものを求める教えではないということになります。
2)涅槃への到達の方法として「四聖諦」があり、日々の実践として「八正道」がある。
「四聖諦」は、まさに仏教の要諦。この四聖諦を基として釈尊の「八万四千の法門」、「対機説法」、「善巧方便」もあるのだとお考え頂けましたらと存じます。
八正道(中道)は、三十七道品における一つの指標的な行いとなります。但し、この「正しい」には、非常に世間的、抽象的な意味合いもあり、実際に進めて行く際には、何が真に勝義的に「正しい」のかを、慎重に吟味しながら進めていく必要がございます。その見極めのためにも「智慧」の開発による「中道」の確立が絶対に欠かせないものになります。
3)最初に苦諦の理解の為に、無常・無我、因縁を理解することが必要
以下は、私の解釈した定義です。
無常:この世の全ては移り変わるもの
無我:全ては繋がりの中で変化している現象である
因縁:原因+条件(環境等)があって結果がある
「無我」については、「空」と「縁起」も併せて理解することも必要となるでしょう。般若心経における「色即是空 空即是色」の内容など。
「因縁」については、厳密に分析していけば、では、どれが原因で、どれが条件であるのかを特定させることが実はできないため(原因にも条件にも実体が無い)、その点は注意が必要となります。
制限字数の関係上、ここまでにて失礼致します。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。ニックネームで不快な思いを
させてしまい、申し訳ありません。
早速、変更させて頂きました。
学問的な知識の向上を目指しているのてはなく、
常に落ち着きのある心の持ちようとは、を模索しています。
お坊様皆様のご意見を参考にさせて頂きます。
三浦様、川口様
悩みでもないご相談に、ご多忙のところ、親切で丁寧な
ご回答、御礼申し上げます。この縁に感謝致します。
仏教を学ぶ前は、傲慢な自分をとても嫌悪しておりました
が、仏教初心者ではありますが、以前より怒り等の悪感情
が減った、というより悪感情は瞬間発生しますが、怒って
いる自分がいる、何で怒ってる、と自問することで、悪感
情が小さくなり、その感情が続かないと感じることが時々
あります。
また、仏教から見れば「人が話す言葉」は、定義として
正しくないことばかりだとも感じます。
自分って何? この問いに仏教的な考えで答えるのも難し
いことだと感じます。
人、モノすべて素粒子の組合せであり、過去からの因果法則
によって、今、現象として見ることができるもの。
とでもなるのでしょうか。
川口様、「原因にも条件にも実体が無い」とのご指摘
ありがとうございます。
この辺りも凡夫にとっては、仏教の難しさでもありますね。
ありがとうございました。