生きるのが死ぬのが、何もかもが不安
元々心身共に良好とは言いがたい状況でした。家庭に問題があり、暗く、人付き合いが苦手でした。
なんとか明るく前向きに生きようと思って行動もしてきたのですが、なかなか上手くいかず、どんどん病んでいき引きこもり勝ちになりました。
そして魔が差してしまい、脱法ドラッグというものを一錠だけ服用してしまいました。正に地獄でした。そこから完全に精神がおかしくなってしまいました。
服用したのは一錠のみで、物質的には完全に抜けていますし、依存もないです。
しかし、フラッシュバックというのでしょうか、苦しい感覚は戻ってきますし、電車も外出も苦しくなってしまいました。なんども後悔しました。
心の底から落ち着いているという感覚がないです。常に何かに怯え、脅迫的に思考し、苦しんでいます。
ドラッグを飲む前は苦しかったけど、漠然と救いというようなものをどこかで信じていたのだと思います。
しかし、ドラッグで死に掛けてから全てが変わった。
あるの絶望感、虚無感です。
精神科にも行きましたが、色々調べると向精神薬も怖くて飲めません。
仏教セラピーというのも少し調べたのですが、全てはエゴが引き起こしているだの、苦しみは受け入れなさいと言われても、正直苦しい。本当に苦しい。
輪廻のお話を聞いても、正直信じられませんし、ただただ怖いです。
記憶も遺伝子も違う自分は自分と言えるのでしょうか。
この先、周りは人間も老いて死んでゆく。
自分も老いて病か天災か人災か様々な苦しみを味わい死んでゆく。
こんなとりとめもない不安が言葉を変えてやってくる。
言葉以前にただただ不安があるのでしょうか、もう分からない
こんな自分は一生苦しんで死んでいくだけなのかと思うと本当に嫌になります。
何を考えてみてもどうしようもない
言葉や観念的な解決法ではあまり意味が無いのだと思います。
救い、安心感を実感しないと。
でもどうしたらいいのか。希望が見えない。自分勝手で醜くどうしようもないとは思いますが、残念ながらこれが素直な自分なのです。
グチャグチャですがお願いします。
どうしたらいいでしょう。どうすれば救われるでしょう。
神仏や救いを信じたい、でも中々信じられないのです。
上辺だけ信じてみても結局意味が無い。心の底から安心できるようになるのはどうすればいいでしょう。
よかったら返答ください
生きるのが苦痛だが死ぬのは怖い なんとか良い人生を歩みたい
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは。
お待たせしていてすいませんでした。
何回も何回も、質問文読ませていただきました。
コトバで語ろうとするけどうまく伝えられない。
その堂々巡りなので端的にいいます。すいません。
心がつらい時は、休むだけじゃなく体を動かす。
頭で考えるだけじゃなくて体に聴け。
散歩、山登り、ジョギング。
他に認められることを目的として心臓が動いてるわけでなし、爪が伸びてるわけでもない。
くよくよ考えず、体動かして疲れたら寝る。
他人の評価を考えるのでなく、「今日も身体お疲れ様!」
と自分の体のハタラキを評価してあげる。
頭の中の信仰よりも、まずは身体への尊さを大事にしてください。
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お礼ありがとうございました。
一日の終わりに今日使った身体の部分に手を当てさすることは可能でしょうか。
お辛い気持ちの中でも、食事をするときに動かしたほほの筋肉。
いろいろと考え事をした頭のこめかみのあたり。など、、
自分で自分の体をいい子いい子してあげられるなら、お願いします。
自分の身体の一番の味方が自分自身であるならば、希望への道に近づくと思います。
人目に触れることや、働くことを目的としてからだを動かすことは、お辛いと思います。
紛らわしい表現ですいませんでした。
神や仏を信じることってそういうことではないからです
私の信仰というものは、なにか神仏の偶像に頼ったり、拝んだり、すがる事が信仰ではありません。
お釈迦様が何かにすがっていたでしょうか?
自分自身の本来の姿に目覚める事が信仰です。
自分自身の本来の姿とは、自分の考えを差し挟む以前の、無垢清浄なる❝本源の❞心です。
その反対が、情報化、情報に染まった、あなたのように常に考え事ばかりしている情報ナイズドな状態です。
心うちをそっと観察してみましょう。
沸き起こる思いの全てにイチイチ取り付いているのではないでしょうか。
出てくる思いはイチイチ全部拾い上げなくても良いのです。
出てくる思いはオフィシャルです、フラッシュバックだろうが何だろうが、自然発生なのです。
それをあなたがつかまえるからいけない、ピックアップするからいけない。
こういう活動はあなたはおそらくやったことが無いでしょう。
それを坐禅というのです。
眼や耳になにが映ろうが響こうが取り上げないで過ごす。
心に何が思い起こされても、今から打ち上げ花火を眺めるように過ごしてみてください。
出てくる思いを前方を走る車であると思って、車間距離を上手にとるのです。
なんで、わざわざ新車の自分の車体を前方の車に自分で突っ込んでいくようなことをするべきでしょうか。
そうしえ自分の思いからフリーになった時、あなたは本来の自分の姿に変える事ができます。
それは、何を見る、聞く、感じるにせよ素晴らしく心地の良い状態です。
そういう心になれます。
まずは脳内情報を控え、出てくる思いにあなたが関わらんように過ごすことです。
「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」
だみや様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と道元禅師は「正法眼蔵」の諸悪莫作の巻で述べられ、また、「修証義」第一章総序の冒頭にても述べられておられます。
私たち仏教に携わる者、僧侶、仏教檀信徒たちにおきましては、生きることと死ぬこと、このことをしっかりと見極めるのが大切なこととなり、この生死一大事の因縁を見極めることにより、生死における不安や恐怖、迷い苦しみを取り除くことが必要になってくる次第でございます。
「何を考えてみてもどうしようもない。言葉や観念的な解決法ではあまり意味が無いのだと思います。救い、安心感を実感しないと。」・・誠にその通りです。そのために確かなる仏道の歩み、修行の実践が欠かせないものとなります。
仏教は実践思想哲学的な側面が強くございます。智慧と方便の両輪があってこそ、仏道を前に進めることができるのであり、ただ、盲目的に信仰するだけや理論・理念・思想・哲学を頭で理解する(智慧)だけでは全く益となりません。それを実践(方便、慈悲行・利他行・善徳行)において活かすことが求められるものとなります。
この智慧と方便(福徳)の二つの実践を因縁(原因や条件)として、やがて悟り・涅槃(大安心の境地)という結果へと到ることが私たちの大きな目的となります。
その中で、生死の因縁を理解することと共に、この世における全てのモノ・コトにおける因果の理、縁起の理を理解して、善き結果へと向けては、善き因縁をしっかりと積み上げていくことが必要であることを理解し、その一つの方法として確かなる智慧と方便(福徳)の二つの実践を進めていくために仏教を学び、そして修していくことを誠にお薦めさせて頂く次第でございます。
また、生死を明らめる上では、般若心経における「不生不滅」についての理解を深めるのも大いに意義があるのではないかと存じております。
「不生不滅」につきましては、これまでにも下記の各問いにて扱わせて頂いておりますので、少しくご参照下さいませ。
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/tag/不生不滅
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
こんな文章を何度も読んで頂き、返答くださりありがとうございます。
もう返答は来ないだろうと思っておりました。
アルバイトや電車に乗って遠出することなどに挑戦していたのですが、発作やなんとも言えぬ苦しい思い、不安が襲ってきます。
ただただ苦しく気が狂いそうになります。
何故なのか自分でも分かりません。
そんな泣き言を言ってもよくはならないのですが。
いつかよくなると、希望が見えると信じて、今はできることをやります。
ありがとうございました。
おっしゃる通りだとは思いますが、電車に乗ったり、閉塞感のある建物に入ったり、ストレスがあると、私がどういう態度をとろうとも気が違いそうな苦しみが込み上げてきます。
アルバイトも乗車も何度も挑戦しています。
そのたびに形容し難い苦しみがやってきます。
もう気にする、気にしないという段階の問題ではないように思うのですが。
紛らわしいお礼で申し訳ありません。
おっしゃる通りからは丹下さんへのお礼になります。
追記の回答ありがとうございます。
お二方のいう通り、思考に捕らわれ自分の身体感覚が希薄化してるというのは間違いなくあると思います。
体を動かし労るただそれだけをやってみます。
いつかその心地好いという境地に至れたらと思います。
川口さん 回答ありがとうございました。
智慧と方便という言葉について調べてみようと思います。
なんとか納得のいく人生にしたいです。今は何もビジョンは見えませんが。
川口さん 回答ありがとうございました。
智慧と方便という言葉について調べてみようと思います。
なんとか納得のいく人生にしたいです。今は何もビジョンは見えませんが。