hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

悟りについていくつか質問させてください

回答数回答 4
有り難し有り難し 33

はじめまして、悟りについていくつか疑問があるので教えて下さい。

お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか?
お釈迦さんは悟りを開く前は苦行をしたり様々な修行法を試しましたが、
最終的には瞑想によって悟りを得たのでしょうか?

悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか?

悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう?

悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか?

お坊さん以外に、この質問に正しく答えることができる人がいないと思う(教えてgooでは正確な回答が返って来るとは思えない)のでお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

素晴らしい質問をありがとうございます。

引用返信にて失礼いたします。ご質問は文字制限があるため略させて頂きました。

どうやって悟りを開いた?
⇒お釈迦様は元々、魚が水の中にいて水をよそに求めなくても元々水の中にあったように、自我意識を働かせていなければ悟りの水の真っただ中にあったことに気づきました。
自心の外、他事や経典に悟りを求めるのではなく、自分の我見・私的見解をトコトン滅し尽くして結果、人間本有の悟り状態(仏心=非・人間の見解的なありよう)に回帰(本来成仏)したといえます。

最終的に瞑想によって悟りを得たか?
⇒6年の修行後に悟ったのではなく、6年間、間違った修行法をしてきてしまって6年目にしてようやく、悟り状態に自分を導くための正しいこころのおさめ方のコツを得ました。それが瞑想(思考やイメージ)ではなく禅定(非思量 思考以前の事実)だったのです。{言葉は瞑想と称しても構いませんが、やっている内容がイメージや思考であれば禅定とは言えませんので世の瞑想と言われるたぐいは思考活動の一種なので瞑想という言葉は控えます}
その具体的方法とは❝心内は虚脱にして 外はただ その事あるのみ❞ などとも言われるように、沸き起こる自分の思いや外の物事に対して❝撃ち方止め❞をして、思考や分別のフィルターを通したものの見方から離れる事で行きつくこころのありようだったのです。

沸き起こる思いに対して、自我の介入を控えれば 左脳的な判断・分別・認識を離れることができて 自と他、内外の隔てのない 右脳的完全感受状態 自受用三昧に到ったのです。

特殊な能力が手に入る?
⇒自分の体感する世界がそれは心地よい、喜ばしいものにかわります。

分かるものなのでしょう?
⇒自分の体感や感じ方が変わるので自分が一番分かります。悟った瞬間の時は、認識をほぼ用いていない状態(三昧)ですので、後になってから「ああ、あの時、思考や分別が途絶えたのか❞と振り返って気づくだけです。

次にどうするのでしょうか?
⇒美味いもん作れるようになったら、その美味しいものを提供したいと思うようになります。
それが釈迦出山、初転法輪に象徴される布教や伝道でしょう。
こちらはここで私が申し上げるところの「悟り」を科学的に立証されている脳学者です。
http://digitalcast.jp/v/18436/ 

{{count}}
有り難し
おきもち

簡潔にお答えします。

とても興味が湧く所だと思います。
お答えします(^^)

>お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか?
輪廻を繰り返しながら様々な修行を続けた結果悟りを開かれました。
お釈迦様は出家後の数年だけで悟りを得たわけではありません。
最後はスジャータの乳粥を召し上がった後に、菩提樹の下で瞑想し仏になられました。
お釈迦は縁覚・独覚として悟られました。

>悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか?
神通力が宿ります。
六神通といわれる六種類のとんでもない能力です。

>悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう?
神通力が備わるので、自他共にすぐ分かります。

>悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか?
お釈迦様はお説法をなさいました。
お弟子が沢山出来て、大変多くのお弟子が仏になりました。

{{count}}
有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学...
このお坊さんを応援する

おさとり。

>お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか?

「どうやって」の意図はわかりませんが、「無明」がわかったことによって
悟ったと伺っています。

>お釈迦さんは悟りを開く前は苦行をしたり様々な修行法を試しましたが、
最終的には瞑想によって悟りを得たのでしょうか?

悟りは一瞬を切り取ったものではないと小衲なぞは感じておりますが、
修行法のひとつである瞑想のなかで「無明」がわかったとされております。

>悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか?

花はわたしにわたしは花に。

>悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう?

おしゃかさまに聞いて頂いたらいいと思います。
道元禅師曰く
「みねのいろ たにのひびきも皆ながら わが釈迦牟尼の こえとすがたと」

やまやたにがおしゃかさまのこえを伝えておりますとのことですので、
ぜひとも耳を傾けて頂いたらよろしいかと存じます。

>悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか?

掃除をして ごはんをたべて だいべんしょうべんをして 坐禅や念仏を唱えて 
ねむくなったら寝ます。 

{{count}}
有り難し
おきもち

「悟り」について

zensyu様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「悟り」に関しましては、以前にも下記の問いにてお答えさせて頂いております。

問い「僧侶の方に聞いてみたいと思っていたこと」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_443680.html

「悟り」という結果を得るには、当然にそのための因縁(原因・条件)が必要となります。その因縁を調えていくのが仏道であり、確かなる仏道を歩むために仏教がある次第でございます。

「・・悟りの妨げとなっている煩悩障と所知障を断滅させていくことへの修行が必要であり、特には、智慧(空性の了解)と福徳(善徳・慈悲・利他行)の二資糧を円満に積んでいくことが大切なこととなります。・・」

しかるべくに智慧と福徳を修めることによって結果としての悟りへと到達できることとなります。瞑想(禅定)はあくまでも悟りへ向けた因縁における修行過程・方法の一つであって、確かに釈尊は菩提樹下にて瞑想なされて最終的に悟りを開かれましたが、瞑想だけで悟りを開けるわけではないことには注意が必要となります。

次に、悟りによって得られる特殊な能力に関しましては、確かに六神通を得られると仏典(沙門果経・相応部経典など)にはございます。六神通につきましては下記の問いにてもお答えさせて頂いておりますのでご参照下さいませ。

問い「霊感ってあるのでしょうか?」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002837225.html

また、悟りは、「自内証」なされるものであり、その境地を自ずと理解できることになるのではないかとは存じます。「甚深、寂静、戯論を離れ、光明、無為、甘露のごとき法を私は得た。誰に教えても理解できないから、説かずに林下に留まろう。」(ラリタヴィスタラ・釈尊の伝記より)

最後に、悟りを開かれて仏陀・如来となられましたら、仏国土・浄土において、更に悟りによる善巧方便によって衆生の救済に尚一層取り組まれることになるのではないかと存じます。

悟りへと向けて共に仏道に精進努力致して参りましょう。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

川口英俊さん、釈心誓さん、丹下覚元さん回答ありがとうございます。

「悟りとは」問答一覧

悟り体験と仏教との関わりについて

こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

悟りや天国に優しさは必要ない?

仏教には、達磨大師など偏屈で冷淡な高僧が多い印象があります。自称霊能者の類にも、優しくない人がいっぱい居ます。悟りや天国に、優しさは必要ないのだろうかと非常に悔しく思います。それはきっと、私がなんの取り柄もない代わりに、「こんな優しい人を初めて見た」とよく言われるような人間だからだと思います。そう、まるで自分の唯一の強みが、天国へ行くために必要ないと世界から言われているような悲しさを味わったのです。ちなみに優しくない人とて地獄に落ちていいとは思いません、人類も動物もみんなで一緒に天国へ行くのが私の望みです。ですが、私は聡明で冷淡な人よりも、鈍重でも優しい人こそより高い天国へ行ってほしいという感想があります。ですがブッダを含めた高僧の多くが王族の出身であったりと、天国に行く人はヒンドゥー教でもカーストがあるように人柄ではなく家柄で決まるのだろうか、とも。 酷く冷淡な自称霊能者に突き放されて酷く傷ついたことも先日あったので、天国に行くために優しさが必要不可欠となるイスラム教に、2駅くらい先の寺院へ行って改宗しようかさえ思いました。ちなみに、「浄土教ならあなたも高僧以上の悟りに辿り着けるよ」と広報運動をしている人は居ました。 (実家は浄土真宗です) などなどについて、何かのアドバイスをいただけたら幸いです。これを見てくださっている優しいあなたにも幸福がありますように。

有り難し有り難し 20
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ